『思い出のファミコン』が本になりました
 

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ドラゴンクエストII 悪霊の神々 ドラゴンクエストII 悪霊の神々
エニックス
1987.1.26発売
©1987 エニックス/アーマープロジェクト/バードスタジオ/チュンソフト

クリアしたときは「すごいことしたな!」と誇りに思った

 初めて「ドラクエ1」を知った小学2年の夏は、RPGの面白さがわからなかった。兄のプレーを見て、魔法使いを倒せるようにレベルが上がったあたりでようやくそれを理解して、冬休みまで楽しんでいたとき、「ドラクエ2」の発売が知らされました。

 発売後にはテレビCMも流れ、あの週刊少年誌にはファミコン神拳のコーナーで特集があり、本当に1日でも早く手にいれたかったのですが、地元では売り切れ。近所の年上の人の家で初めて見た「ドラクエ2」の光景は、色鮮やかな画面で、音楽も綺麗で衝撃的でした。テパの村でレベル上げしてたのを覚えてます。それからは、雑誌等に掲載されているゲーム情報はすべて覚えたような気がします。実際呪文22種は完全に暗記しました。

 ただ、このカセットを手に入れたのは、その年の6月あたり。世間ではブームもだいぶ落ち着いて、裏ワザが出回ったいた頃でしたので、正直クリアまでの謎解きは半減しました。けれど、感動的なエンディングを迎えた時、努力は報われるというか、子どもながらに「すごいことしたな!」って誇りに思いましたね。そしてその数ヵ月後、「ドラクエ3」の発売が決まり、また繰り返しです。

 1986年あたりのファミコンは当たり年で、面白いカセットが数多く出ましたけど、やはり「ドラクエ」ですね。とくにファミコンの「ドラクエ2」が一番好きで、今でも半年に一度はスタートさせます。ドラクエシリーズにひかりあれ!

寄稿:ウトヤスオ 男 1978年生 宮崎育ち 営業


父と一緒に胸をときめかせた初RPG

 アクションゲームしか家にはなく、まだRPGが認識されてない我が家に「ドラクエII」がやってきた。父が、「流行っているから」と買ってきたゲームだが、父自身がRPGのシステムの面白さに夢中になってやっていた。

 当時幼稚園児だった私は、横に座ってゲームを眺めていただけだが、もう楽しくて楽しくて仕方がなかった。敵のグラフィック、次はどんな街か? 新しく買える装備は? そして魔法。とにかく横で成長する画面の中の主人公たちに感情移入していた。自分ではかってに、父がローレシアの王子で自分がサマルトリアの王子、というふうに置き換えて脳内冒険をしてました。

 自分でやるとなかなかうまくいかず、初クリアしたのは小学生の時でした。先にほこらがあることを父のプレーで見ていた私は、ロンダルキアの洞窟をローレシアの王子一人が、残りHP6の状態で棺桶を引きずり、一歩一歩、祈りながら進みました。当然祈りが通じたのは悪霊の方であり、辿り着けずに全滅したのはいい思い出です。「ドラクエII」がシリーズ内で一番大好きです。

寄稿:クッキー 男 1982年生 東京育ち 会社員


今でも記憶していられるふっかつのじゅもん

 ファミコン世代の自分にとって、「ドラクエ」は子どもの時の人生の勉強場でもありました。「ドラゴンクエストII」といえば……

(1)ふっかつのじゅもん
今であればカメラ付き携帯でパシャ、で済むでしょうけど、当時は大変だった。ひとつ上の兄と、ふたりがかりで確認しながらメモっても間違える始末。あの時のショックとやり場のない怒りときたら……。他の方も書かれていたので、自分だけではないのだな、と改めて思ったのだが、ふっかつのじゅもんは20数年経った今でも記憶していられるのが不思議でならない! 本当、この記憶術をほかで活かしたい。

(2)パーティー
仲間を連れて進むようになり、また敵も複数で現れるようになる。今のRPGでは当たり前すぎて何てことないだろうけど、どの敵を先に倒すかとか、誰が何をするなど、“戦略”が大幅に広がった。

(3)裏技
ふっかつのじゅもん以外にも、いくつか隠し技的なものがあったと思う。自分が一番記憶に残ってるのは、「はかいのつるぎ」の攻撃力+「はやぶさのけん」の2回攻撃を合わせ持った、最強の「はかいはやぶさ」。(→自分の周りではこう呼んでたけど)

スーパーマリオより、ゼルダより、やっぱドラクエ!だったな〜。

寄稿:大石哲也 男 1978年生 埼玉育ち 専門職


「ひらりとみをかわした」で間一髪救われたラスボス戦

 忘れもしないラスボス戦。仲間の王子と王女は戦いに倒れ、残った主人公はMPが底をつき、仲間を復活させるすべも無く、HPは確実にあと一撃で0になる状態だった。

 ラスボスにもだいぶダメージを与えたが、もう絶体絶命。次のターンでコチラの攻撃が先制できればあと1回は攻撃ができると、望みをかけてAボタンを押した。しかし、無情にも最初に攻撃したのはラスボスたった。望みは消えた……。

 と、思われたが奇跡が起きた! 主人公はひらりとみをかわし、攻撃に転じダメージを与え、奇跡の最後の渾身の一撃でラスボスを倒せたのです!

 大人になった今でも、「ひらりとみをかわした」の文字が出た瞬間が強烈に記憶に残っています。私の大切なファミっ子時代の思い出です。

寄稿:ノレパン 男 1976年生 山形育ち ゲーマー


パスワードの書き取り役をさせられた

 「ドラクエII」は、たしか兄とお年玉を出し合い、中古で購入した記憶があります。結局、兄がハマり、プレーを横から見守り、確認用のパスワードの書き取り役をさせられ、兄が不在のわずかな時間でプレーをするという生活が続きました。

 挙げ句の果てには、ムーンブルクの王女の居場所が分からない兄が、助っ人の友人を兄が部活で不在の時に呼び、代理で私が攻略方法教えてもらい兄へ伝える、という伝達役までやらされるハメに。さらに自分用のパスワード間違いもあったりで、次第にやる気が失せて、クリアできなかった記憶があります。

 一方、兄もロンダルキアの洞窟が突破できず、次第に兄への従順さが失われつつあった私が、パスワードの書き取り役をボイコットしだしたため、パスワード間違いが頻発。クリア手前で兄もドロップアウトしてしまい、兄弟揃って未クリアのままでした。

 ところが数ヵ月後、ファミコンを持っていない私の友人が、家に遊びにきた時にホコリをかぶっていた「ドラクエII」のソフトを発見し、ほぼ毎日のように我が家に遊びにきて、最後にクリアしてしまいました。結局、エンディングはその子のおかげで見られました。

寄稿:かず 男 1976年生 愛知育ち 会社員


期末テスト真っ只中のプレー自慢を友人に引かれた

 「ドラクエII」発売当時、自分は高校生でした。発売日当日には入手できず、再入荷分に予約しておもちゃ屋さんを後にしたのでした。

 そして、待つこと数日……。おもちゃ屋さんから「入荷しました」と電話が入ったのは、なんと期末テストの真っ只中でした。ちょうど試験期間中でしたので、早く家に帰っていた自分は即、おもちゃ屋さんへ全速力で自転車をとばし、次の日もテストがまだ残っているというのにカセットを購入してゲームをスタートしたのです。

 次の日、テストの合間の休み時間にクラスの友だちに、「いや〜、ついに『ドラクエII』買ったよ〜、面白ぇのなんのって」とか何とか脳天気に話しかけてたら、みんなが、「…テスト中なのに…」と思いっきり引いていました(^_^;)

寄稿:ばっかバッハ 男 1970年生 宮城育ち 自営業等


仲間がなかなか見つけられず

 俺史上2番めに入手したRPGにして、ゲームの小説まで買うほどハマったゲーム。それだけに色々思い出はあるけれど、とにかく仲間が見つからなかった。

 まずは誰もが見失うサマルトリアの王子。奴を探して何週間だろう。既に探せるはずの場所はすべて探し尽し、銀のカギまでゲット済み。その上「くさりがま」などここまでで買える最強装備はすべて購入済み。ムーンブルクに続く道をふさぐ兵士の間をすり抜けようとすること幾度も。

 この先はひとりでは危ないと言い張る兵士を納得させるために、いっそレベル上げに専念して無理矢理通ってやろうかと勝手に考えて、特訓の計画を立てていた矢先、いっそのことサマルトリアの王子の分も装備を買っておいてやろうと町に行ったら何とそこには……!

 そして、ムーンブルクの王女も。何しろ「ラーの鏡」が見つからない。中古で買ったので説明書がなかったこともあり、沼地が分からなかった俺。それでも普通、4つの橋が見える沼地と言えば連想できそうですが、マリオやりすぎだった俺にとって、黒っぽくてダメージを受けるそれは「トゲの床」以外の何者でもなく完全に捜索対象外。

 結局、王女が仲間になった少し後に王子がベギラマを覚えました。お陰でロンダルキアの洞窟の手前までは割とサックサクでした。

寄稿:AK47 男 1982年生 北海道育ち 会社員


“売る側”としての悩み

 学校の長期休暇や土日には叔父の玩具店でバイトをしていたので、当時“売る側”でもありました。

「流行っているみたいだから」と、小学校低学年や幼児に買い与えたものの、「文字ばっかり出てきて、わけがわかない」「こんなゲームだと思わなかった」と、返品や交換を求める親御さんが少なからずいましたね。今のモンスターペアレントみたいじゃなく、あくまでも「もしできるのだったら…」って感じでしたが。

結局、店内にテレビとファミコンを設置して、デモプレーをやってみせる、またはやってもらって納得してから購入してもらうって方法をとりました。

寄稿:PhotoLege 男 1970年生 福岡育ち


シドーに毎ターンをパルプンテで起こったこと

 恐らくこのゲームに出会ったのは小学生低学年の頃。自分の部屋を持っていた6歳年上の姉が、「ファミコンなど絶対に買わない」と言っている両親の目を盗んでこっそりファミコンを購入、そしてこのゲームを買って来ました。

 ゲームにまったく興味の無いもう一人の姉が両親にファミコンの存在をチクるその日まで、色々な意味でドキドキしながら姉のプレーを眺めていたものです。姉は、それはもうやり込んで(学校で情報交換などもしたのでしょう)、「私が学校から帰ってくるまで、この呪文を使って遊んでいていいよ。お母ちゃんに見つからないようにね。」と、復活の呪文の書いてある紙をくれました。

 それは、シドーにも余裕で勝てるくらいレベルの上がったものでした。最後のセーブ地点のほこらから、最強の3人で中ボスをなぎ倒していく接待のようなプレーをして、最終的に私の楽しみになったのは、「シドーに色々なことをやってみる」ことでした。特にドキドキしたのはパルプンテ。何をやっても余裕で勝てるので、毎ターンパルプンテ。

 そして、それは起こりました。「恐ろしいもの」が現れてシドー逃走。最強のシドーが逃げ出すほど恐ろしいって……誰だよ。画面に何も居なくなりました。
 さらに、次の瞬間。

「シドーが現れた。」

 もう一度、何の言い訳もせずにシドーが帰ってきました。恐ろしい奴とは話し合いが済んだのでしょうか?

 今、気になるのは戻ってきたシドーのHP。MAXになって戻ってきていたとしたら……ショックです。ファミコンの存在が両親にバレる、少し前のお話です。

寄稿:たから 女 1975年生 福島育ち 主婦


「もょもと」のおかげ

 もう20年以上前のことになるのかぁ。でも今でも復活の呪文を言えるんだなぁ。三つ子の魂百までってやつでしょうか?

びつが ぱにげ がるくお
おゆぶ むりや えななば
ぴばず ふうち のぴまつ
ねぐた ぴがさ てばのと
のがね べざぎ つ

 これであってるはず。暇な方お試しあれ。確か名前は「たけだ」で最強になっております。私はたけだではありません。たぶん知り合いの先輩の名であり、その復活の呪文だったと思います。まだ幼かった私は自分ではクリアできず、この「たけだ」で何度かクリアしたものです。

 あと忘れてはいけない「もょもと」。彼にはほんとにお世話になりました。彼がいたからずんずんと進んでいけたのです。当時、1日1時間までという制限のあるゲームの時間をレベル上げだけで終わらずにすんだのは、まさに彼のおかげでしょう。同じ思いをされた方がほかにもいらっしゃるのでは?

寄稿:ダイルパン 男 1979年生 島根育ち


「ラーの鏡」を探してレベルだけやたら高くなり

 小学2年生のときに買ってもらったソフトが「ドラクエ2」でした。めちゃくちゃはまって、学校の授業中でも考えているのは「ドラクエ2」のことばかり。早く帰って「ドラクエ2」をしたくてウズウズしてました。

 「ラーの鏡」がどこにあるのか分からなくて、行ける範囲の町や洞窟を満遍なく調べて回りました。それでもやはり分からなくて、レベルだけやたら高くなって立ち往生していました。

 ある日あの沼が怪しいのではないかと気づいて、「しらべる」コマンドを押すと、「ラーの鏡」を発見。町に戻って犬に「ラーの鏡」を見せると3人目が仲間に加わりました。そのときはめちゃくちゃ感動しました。

寄稿:大野 浩 男 1978年生 長崎育ち アフィリエイター


ゴム毬直撃

 今、私がキーボードを叩くこの場所に、かつてファミコンがあった。方眼紙に落とし穴の位置をマッピングしつつ、ロンダルキアの洞窟に挑む兄と、その友人。

 自分はというと、階下の駐車場に居る友人とボール投げをして遊んでいた。部屋と廊下をつなぐ障子が開けられていたから、暖かな季節だったと思う。いや、今思うとボール遊びをしつつも冒険の行方が気になり、自分が無理を言って開けていた、という気がしてきた。ともかく、この開け放しの障子が後に重要な意味を持つ。

 ほどなくして「ホワァァァァァ!!!!!」という歓喜の声。見てみると、そこには今まで見たことも無い雪景色。数秒に一歩、慎重に慎重を重ねて進んでいく兄と友人。(この先に一体何があるんだろう!?)

 固唾を飲んだ自分の耳の脇を一陣の風が通り抜けた。階下の友人が投げたボール―――小さめのサッカーボール程度の赤いゴム毬が―――これ以上ない絶妙の角度で、カセットとイジェクトボタンのド真中に直撃した。それから後のことは覚えていないが、大方の想像はつく。

 はかぶさの剣、水の羽衣複製、いかづちの杖で金稼ぎ―――それらと共に、ゴム毬が直撃した後の幾何学模様の画面を、自分は一生忘れることがないだろう。

寄稿:鼻毛谷 男 1980年生 東京育ち 派遣社員


書き写しを早送りに激ギレ

 ああ、思い出す。小学生の時に熱中した「ドラクエ2」といえば、なんといっても復活の呪文ですね。文字の書き間違いによって努力が泡となったり、間違えた時、「ね」と「ぬ」や「わ」を書き換えてみて奇跡的に正解したり……。

 なかでも、友人の家に行った時のこと。自分のゲームの復活の呪文をせっせと書き写す友人。その時、彼の弟が何気なくAボタンを「ピッ」と……。そう、書いている途中の呪文が全部早送りに……w。小学4年生にとって、もう一回書き直すから許す、という大人な対応はなく、弟に激ギレしたのでした。

 あと、ロンダルキアも印象深いですね。長くて難しい洞窟(とくに落とし穴……)を抜けた後に開ける雪景色。さらに、アトラスとかのボス決戦の時、ダメージを与えた時のエフェクトがちょっと普通とは違うようになっていて、ドキドキしたものでした。

寄稿:ベナユン 男 1977年生 京都育ち 営業


復活の呪文間違いでショックを受けて未完のまま

 ドラクエシリーズは発売日に店に列ができたそうですが、私は発売当時2歳でしたので、店に並ぶなどはしたことありませんでした。

 私の中で初RPGのドラクエ2を始めたきっかけは、当時小3くらいの時に父が先にプレーしてて、興味本意から始めたものでした。しかし復活の呪文に少し特徴があって、正確に写しているにも関わらず、復活の呪文が違います、とゲーム再開できませんでした。

 そこで父に、「復活の呪文が違うっていつも言われるんだけどなんで?」と聞いてみると、「あれはいつも最後の1文字を教えてくれないんだよ。だから最後の1文字を最初から最 後まで試して入れると出来るようになる(w」と言われました。実際に最後の1文字を総当りで試してみると、なんと再開できたのです! 

 当時の私はそれが当たり前なのだと思い疑いもしませんでした。なので復活の呪文を書き写す時は、「どうせまた1文字教えてくれないんだろ……」と呟きながら写したものです。

 そして物語も中盤くらいで最悪の事態が……。何をやっても復活の呪文が違います、と言われて再開できませんでした。前回の復活の呪文から友だちの助けを借りて、かなり物語を進めた状態で起きたこの事態に、幼き私はショックを受け、コントローラーを手放しました。

 それ以来、このドラクエ2(移植版含め)には触れていません。なのでエンディングは夢のまた夢……ah〜悪夢の呪文w

寄稿:9292 男 1984年生 新潟育ち 会社員


不思議と覚えてる呪文や敵キャラ

 ドラクエ1〜4までやったなかで、一番のお気に入りの2。復活の呪文の苦しみはもちろん、いろんな意味で苦労したのもいい思い出です。音楽もいいです。友だちみんなで情報交換しながらクリアしました。

 インターネットも携帯も無い時代、学校の教室がその場でした。大人になって記憶力が落ちたなと思うけど、子供のころの記憶は鮮明で、今でも呪文や敵キャラの名前を覚えてるのが不思議と嬉しいです。

寄稿:博多くまくま 男 1971年生 佐賀育ち 公務員


ロンダルキアへ抜けたときのあの雪景色

 当時幼稚園児であった私は、母や姉と一緒になってプレーしていたのを覚えている。ファミコン版はロンダルキアへの洞窟あたりから、難易度が劇的に増し、ロンダルキアへ抜けたときのあの雪景色を忘れることができない。結果的には2より3のほうを先にクリアしてしまっていた。

 ある日、私が自転車の鍵を失くしたことにキレた母親は、テーブルに置いてあったこのソフトを窓に投げつけ、ソフトは真っ二つ、アジの開き状態になった。のちにスーファミ版を手に入れたが、やはりファミコン版の難易度が捨てがたい。

寄稿:kame 男 1982年生 大阪育ち フリーター


レベル1での3人旅

 このゲームは相当やりこみました。当時流行っていた「ファミ通」で、「低レベルで仲間3人」との情報を見て、やりましたよ。レベル1での3人旅の開始。何にもならないけれどはまりましたね。

 あと、復活の呪文の間違いを防ぐため、弟とダブルチェックしたり、2回書いたりしましたが、どうしてもだめでしたね。書き間違いが多くて……。

寄稿:キャスバル・レム・ダイクン 男 1975年生 熊本育ち 社会福祉士


突然の開眼

 当時小学3年生だった私には、RPGゲームの面白さがまったくわからなかった。モンスターだけが画面に出てきて主人公である自分の分身がフィールド上にしか出てこなく、文章だけの攻撃でまったくつまらなくて、購入して失敗したと思った。

 それから数年後のある日曜日、1人で留守番をしていた自分は、何げなくドラクエ2のソフトをファミコンに挿入した。そして、やっとその面白さが分かったのだ。さっそく、ふっかつのじゅもん用のノートを買い、塾もさぼってやりこんだものだ。

 そして私には、おそらくほとんどの人が経験してない自慢が2つあります。
(1)スロットで777がそろい、「ゴールドカード」(買い物が何割引きかになる)をもらえた。 (2)あるモンスターを倒したら「ふっかつのたま」をもらえた(通常はお城でしか復活の呪文がきけなかったがこの玉があればどこででも復活の呪文がきける)

寄稿:島田 誠一 男 1977年生 福井育ち 会社員


死の呪文パルプンテ

 その日は結構長い時間ドラクエを楽しんでいた。レベルもだいぶあがって、王女がパルプンテを覚えたので、まあ何げにパルプンテを使ってみたのです。

 すると、なんとあろうことか、ゲームがその場で止まってしまいました。ピーという機械音しか聞こえず、コントローラーを動かしてもまったくうんともすんともいわないありさまです。おかげで今までの苦労がすべて水の泡になりました。

 「ドラクエIII」からパルプンテの効力はある程度決まってくるのですが、IIの時代にはバグが発生する危険性があったので、まさに死の呪文だと思いました。おかげでもう二度と、IIではパルプンテを使わなかったことは言うまでもありません……。

寄稿:ゆきべえ 男 1974年生 佐賀育ち 販売員


小学生と幼稚園の子供と一緒にプレー

「ドラクエVIII」が発売された時、量販店であのオープニングが耳に入ってきて、胸がうずきました。でも、その時の私は、長らくゲームから離れていて、「プレステ2すら持っていない私には、VIIIをやる資格はない……」と思い諦めました。

 でも、やっぱりドラクエのことが頭から離れない! そんな私は、ある時、ドラクエI〜IVまでのゲーム音源CDを購入。それを一緒に聞いていた、やっぱり少年時代ドラクエに夢中だった夫が、かの思い出の名曲『Love Song探して』を携帯の着メロで作ってくれて、忠実に再現してくれました。

 着メロ作成が得意な夫は、その後、IIIの城→冒険の旅→オープニングと立て続けに作ってくれました。毎日毎日、それを聞きながらドラクエの話ばかりしていました。

 ここまできたら、もうプレーするしかない!と思い、スーパーファミコンとI・IIをオークションで購入し、小学生と幼稚園の子供と一緒になってプレーしています。復活の呪文がなくなった分、あの血のにじむような努力もなく、ラクチンですが、『Love Song探して』を聞けないのは残念です……。

 我が子ももちろん一緒になって楽しんでいますが、やっぱり復活の呪文を間違えながら、パソコンのない時代に教室で情報交換をし、一喜一憂しながらロンダルキアを目指した私の子供時代の楽しさとは雲泥の差なんでしょうね……。プレステ2とドラクエのVIIIまでを大人買い(?)し、全部やります!

寄稿:macky 女 1974年生 神奈川育ち 主婦


棺桶を引きずって歩きまくり

初めてのパーティーバトル。前作に比べ、格段に戦略性がアップしたバトルに胸を躍らせました。

 しかしこのゲーム、ものすごくバランスが悪い! ラリホーをかけられ、なかなか目が覚めず、格下相手に全滅。船を手に入れ、移動範囲が広がるものの、どの街を目指せばいいのか全然わからず、急に強敵が現れ全滅。とにかく全滅しました。棺桶を引きずって歩きまくりました。

 けど、その厳しさゆえにファミコン時代のRPGではもっとも印象に残っている1本です。友人が家にきた時には、友人たちをサマルトリアの王子とムーンブルクの王女に割り当て、戦闘時のコマンドを任せていました。ローレシアの王子役である自分は、いかなる場合でも「たたかう」の選択しかできなかったので、呪文が使える友人たちが羨ましかった。

 だけど、コントローラーを握っている自分がリーダー。友人たちには「洞窟に入ったからなるべく呪文使うのを控えて、いかづちの杖とか使うようにしようよ」とか「もうちょっと早めに回復呪文使おうよ。たまに2回攻撃の敵出るしさ」などと作戦を指示してました。そう。知らず知らずのうちに、ドラクエ4からの「作戦システム」を先取りしていたのです。いや、気分はまさにオンラインでした。

 そして、ドラクエIIで忘れてはいけないのが、あのロンダルキアの洞窟。落とし穴地獄で何回墓地から這い上がったことか。長時間の冒険にそなえて呪文を節約してるのに、MPを吸い取られたり……。リレミトで戻り、挑戦し、またリレミトで戻り、また挑戦し、そんなことを何時間続けていたことか……。

 だからこそ、ロンダルキアを抜けた時の白い雪原の風景が目に飛び込んだ時、涙を流しそうになりました。ある意味、エンディング以上に感動した瞬間でした。

寄稿:福島 幸治 男 1975年生 京都育ち 小説家 ホームページ


カセットは失っても記憶からは消えない「ふっかつのじゅもん」

めぱこ ぎいび おわくえ
いみご にはて えひすぐ
わふよ びらう とごぐば
べぜが つきえ すぐそけ
らさず がびぴ べすずつ ひり

 友人からはだいぶ遅れて買ってもらったファミコン。当時小4。これと「ミッキーマウス」が最初のカセット(ソフトとは呼んでなかったなぁ)でした。

 上の「じゅもん」で、何度もハーゴンの城に出張し、パズズのザラキでサマルトリアの王子がやられてやり直したり、シドーの羽にムーンブルクの王女のHPが隠れて知らないうちに瀕死になってるから、あとはなし崩し的に殲滅させられたり……。小4にはレベル50では不足でしたね。

 いろいろメモったノートは、おそらく10年以上前にはなくなっていたであろうし、ドラクエIIのカセット自体も、学生の頃に本体もろともオークションで売ってしまったけど、この「じゅもん」だけはなぜか記憶に残ったまま。でも、こんな天才的な記憶力が他で活かされることは、後にも先にも、ない……。

寄稿:かるひこ 男 1977年生 千葉育ち 公務員


不思議な「ふっかつのじゅもん」

 このゲームが出た頃、「ぼうけんのしょ」というものがなく「ふっかつのじゅもん」というパスワードを入れてゲームを始めるのはあたりまえのことでした。52文字の文字列をメモすることがあたりまえであり、それをまちがえることもまた、あたりまえのようにあったことなのです。

 ある日友だちから教えてもらった「ふっかつのじゅもん」、その中には初めからゴールドが最高の 65535 G というものがあり、それでゲームを始めました。そしてゲームを進めて船を取り、アレフガルドのラダトームまでいったところでふっかつのじゅもんを聞いてゲームを終わりました。

 またある日、その「ふっかつのじゅもん」で始めようとすると、ゲームは始まったのですが、様子が違いました。ローレシアの王子がひとりでラダトームにいて、レベル50(最高)でいたのです。うれしい間違いだったので、雑誌にでも送ろうかと思っていたのが、メモをなくしてしまいました。

 普通にゲームをしてもこうはならないので、この「ふっかつのじゅもん」だけは取っておくべきだったと今でも後悔に近いものを感じます。

寄稿:もよもと 男 1976年生 青森育ち 会社員


発売日の緊迫の放課後

 当時6年生だった1987年1月26日の帰りのホームルーム。その日はクラスの大半の男子の様子が明らかにおかしかった。もう、早く帰りたくて帰りたくて仕方がなかったのだ。

 だってドラクエIIの発売日なんだもん。先生の話もうわのそら。席にすわっているのにランドセルを背負ってる奴もいる。

 この状況にさすがの先生も感づいた。その時から先生の長話が始まった。先生の話に男子の苛立ちが頂点に達した時、先生が「ドラクエIIは先生の話が終わった後だ!!!」先生がキレた。男子は緊張の糸が切れた……。

 結局、予約したやつは買えたが、予約をしていない友だち中には買えなったやつもいた。今思えば、先生もドラクエIIを買いに行きたっかたのかな。

寄稿:ボブ・ホーナー 男 1974年生 千葉育ち 管理業


『この道わが旅』の最中に届いた合格通知

このゲームを一生忘れることができない理由が僕にはある。初めてファミコンを買い、そして初めて買ったのがこのソフト。当時18歳、とっくにDQ2は発売されていたのだが、大学受験を控えていたため、自分の中でゲームのたぐいは封印していた。

 すべての試験日程が終わり、僕は結果を待つことなくゲームに没頭。ムーンブルクの王女を仲間にしてから変わるフィールドの音楽に胸踊らせ、いざ前へ前へ。ところが、マンドリルとリビングデッドの大群に何度も瞬殺。初めてのRPGのため、「レベル上げ」という概念もないまま、這々の体(ほうほうのてい)でロンタルギア、そしてハーゴン戦となる。

 幾度かの挑戦の末、ようやく撃破と思ったのも束の間、真のラスボスという存在を知らなかった自分にとって、かの敵はあまりも強敵だった。サマルトリアの王子が死に、ムーンブルクの王女も力尽き、残るはローレシアの王子ただ一人。完全な肉弾戦の中、あと1度攻撃を受けたら死亡という所で会心の一撃が出て、長い戦いは終わった。「なるほど、ドラマチックにギリギリの所で倒せるように設定されていたか!」などと、勝手におめでたい解釈をしつつ、エンディング。

 そして、現実の世界でもドラマが起きた。『この道わが旅』がかかるなかで届いた、第一志望校からの合格通知。僕にとってこのゲームが一生忘れられないものとなった瞬間だった。

寄稿:ひろや 男 1970年生 東京育ち


当時すでにパソコンでは3が!?

 DQ2には、今も忘れられないとびっきりの思い出があります。

 卒業も間近に迫った小6の冬、DQ2は発売されました。その日以降、クラスの男子の話題は、「今レベルなんぼ?」「どこまで進んだ?」など、ドラクエ一色でした。そんな中、クラス1の秀才だったK君は、くる日もくる日も塾通い。一人っ子の彼は、親に大事に育てられ、当時最新式のパソコンが彼の遊び道具として与えられ、ファミコンなんて大衆向けの遊び道具は与えられておりませんでした。

 ある日、ドラクエ話に参加できないK君は、とんでもない嘘を皆の前でついてしまいました。「お前ら遅れてるなー、今パソコンじゃDQ3〜黄泉の神々〜で盛り上がってんだぜ!」その日から、彼の膨大な架空DQ3のストーリーが休憩時間の度に練り上げられ、皆の前で語られることになったのです。

 ついには、彼の話をまともに信じたK元君の手により、そのストーリーが卒業文集で克明に描かれるまでになったのです。あとには引けないK君、結局はその嘘を撤回することなく、文集は発行されました。今も私はその文集を持っていますが、K君はきっと捨てているような気がします。

寄稿:ピチパラキング 男 1974年生 広島育ち 会社員


父親のパチンコ勝利記念に入手

 発売当時、私は小学2年生でした。父親のパチンコ勝利記念に、「何か好きなものをひとつ買ってもらえる」という嬉しいイベントで買うことになりました。田舎のおもちゃ屋さんでおもちゃを眺めていると、兄が一言。「ドラクエ、ドラクエII買ってもらえ!」

 こうして我が家にやってきた「ドラクエII」ですが、当時の私にとってはまったくわけのわからないゲームでした。ていうか、兄のほうがはまってました……。どちらかというと、兄のプレーを見ていたことが多かったのです。そんな兄妹は、物語の終盤「じゃしんのぞう」を苦労の末手に入れたのでした。大喜びもつかの間、次の日「ふっかつのじゅもんがちがいます」というメッセージを見ることになるのですが。

 やっぱり人生苦労も必要なのだと、思い知ったゲームです。もちろん、その後私自身もクリアしましたよ。

寄稿:ぽむぽむ 女 1978年生 新潟育ち 保健師


ブリザードのザラキに全滅

 当時、ゲームというものが我が家では市民権を得ておらず、「いいかげん、早く勉強しなさい!」という母親の声に、「いま呪文を書いているから待って!」と言っても、母親の納得が得られるわけでなし。問答無用で電源オフされ、がっかり。

 慌てて写したふっかつのじゅもんは、「ね」と「わ」を間違えるなどはあたり前で、一時期は「ムーンペタの老人のふっかつのじゅもんは間違いが多い」というデマに惑わされて、わざわざ他の場所まで遠征して全滅したりしたものです。

 レベルアップもそこそこに、ムーンペタを出発して息も絶え絶えになって、やっとたどり着いたルプガナについたのに、よせばいいのにグレムリンに声をかけてしまい、あえなく全滅。

 迷宮ロンダルキアの洞窟をやっと抜けて、一面の銀世界に感動するも、ブリザードのザラキにあえなく全滅(しかもザラキがかかる直前に文字が真っ赤になるのが、絶妙)。

 こうした苦労があったからこそ、このゲームの印象がもっとも強いのかもしれません。そしてラストに流れる「この道、わが旅」は、ドラクエシリーズの中でも最高の音楽だと思っています。

寄稿:PON 男 1973年生 大分育ち 会社員


年端のいかない子供時代によくプレーしたものだ

 DQ2に出会ったのは、小学2年生のときであったと記憶しています。当時、RPGなんてわけのわからないものである、という認識しかない年齢でしたが、なぜか友人のD君がソフトを持っていたのです。それを借りてプレーしたところ、何か面白くてついついやってしまいました。

 小2と書きましたが、今から思うとその年齢でRPGが理解できていたとは考え難いですし、プレーしていたときに天安門事件のニュースを聞いていた記憶があるので、9〜10歳のときにプレーしたのだと思います。我ながら、年端のいかないガキがよくやっていたなぁと思います。

 最高でローレシア王子がレベル30くらいでロンダルギアの洞窟の手前、というところくらいまで進んでましたが、ガストの攻撃が遅いのに不満を感じやめてしまったのです(復活の呪文のメモを紛失しただけかもしれませんが)。

 時が過ぎて二十歳を過ぎたころ、大学のゼミをサボってまでクリアを目指しました。無事にクリアできましたが、何か言い知れぬ感動を覚えました(エンディングの曲が「ダイの大冒険」のエンディング曲であったことも初めて知りました)。

 話が飛びますが、ロト3部作で何より注目すべきは、わずか3年間(1986〜1988)であのような壮大なストーリーを完成させたスタッフの皆様方の努力であると思います。DQ2は、私のファミコン人生でまず思い出に挙がる作品です。

寄稿:もなしゅ 男 1980年生 岐阜育ち 学生


勉強以上にノートをとった

 私のゲーム史上、最も思い出の残るRPG。これがなければ私の人生は大きく変わっていたと思う。

 中学2年の時に出たのがこの「ドラクエII」。当時、受験勉強まっさかり。夜中に親の目を盗んでは自室でもくもくとやっていた。勉強以上にノートをとった復活の呪文、塔や洞窟のマップ。とにかく夜は熱中、昼は授業中もドラクエのことばかり考える。おかげで目標校を3ランク落としたが、これもまた人生か。

 ファミ通で『しあわせのかたち』という漫画があった。ドラクエIIをモチーフにした愉快な漫画。おもしろかった。

 ひとりずつ仲間の増える感動、わかりやすい物語、隠しコマンドで仲間の名前が任意に変えられる。音楽も画面もシナリオもバランスも一番好きなRPGであります。

寄稿:ゾイン 男 1972年生 神奈川育ち 映画監督


「点」と「丸」などはよく間違えた

 当時はファミコン初のRPGとして、ゲームといえばアクションやシューティングしか知らない子供たちに大きな衝撃を与えた『ドラゴンクエスト』の2作目である。

 しかし、多くのみなさんはIIといって最初に思い浮かぶのは、ゲームの内容よりも、ただただただ長い復活の呪文ではないだろうか。かくいう私も復活の呪文には苦労したものだ。テレビの映りが鮮明ではなく、ゲーム用の使わなくなった14型のテレビを使っていたので、「点」と「丸」などはよく間違えたものだ。

 かなり進んでから間違えた日には、間違える可能性のある所をすべて変えてみたりしたのですが、やっぱりダメで途方にくれたものです。今考えれば、昔のゲームはいろんな面でシビアで、忍耐力が養われた気がします……。

 そして、先日部屋から出てきたのが「最強」と書かれた意味不明な文字列が並んだノートです。これがなんなのかはあの時の苦労とともにすぐにわかりました。セーブ、ロードしか知らない今の子供たちに、ぜひともプレーして欲しいドラクエのルーツとなる作品です。

寄稿:ガンダマー 男 1975年生 秋田育ち


宝物として封印していた「ふっかつのじゅもん」

 部屋を整理していると、お菓子の箱に入った紙切れを発見した。その箱は厳重に封印されており、何かただならぬ雰囲気を出していた。もしかしてこの紙切れは宝の地図!? よく見ると「あたな ふきや ろちにや〜」といった文字が書かれてあった。そう、これはふっかつのじゅもん!

 なんでこんなに厳重にしてあったのかな? 僕の手元にファミコン本体はもうないので、大学生の後輩にこのじゅもんをメールで送り、プレーしてもらうことにした。電話の向こうの後輩は興奮しながら「ローレシアの王子の名前はつばさですね。あっ! 全員のレベルが最高ですよ!」と教えてくれた。

 子供にとって何よりの宝物だったのだろう。当時の僕の気持ちを思い、子供心のけなげさに涙が出た一瞬だった。

寄稿:ライデン 男 1974年生 大阪育ち 戦略担当兼作家


今ならカメラ付き携帯で復活の呪文写し

 ドラクエIをやっとの思いでクリアし、余韻に浸っていた小学校3〜4年生の頃、テレビを見ているとドラクエII発売のニュースが!! 早速親を引っ張っておもちゃ屋に行くが、どこも売り切れ。7件目でやっと最後の1本をGET!! 例に漏れず復活の呪文の写し間違いで何度泣いたことか……。

 そんな私も27歳になり、最近またファミコンでドラクエIIをクリアしました。でも小学生の時と違った事は、「カメラ付き携帯で復活の呪文の写真を撮る」という、時代の流れを感じさせる技でした。おかげさまで一度も「じゅもんがちがいます」の悪夢を見ずに済みました(^_^)

寄稿:9DTR@ 男 1976年生 山形育ち 会社員


『魔界島』で妥協しなくてよかった

 あれはたしか小学一年生の時だったかな? 両親が、兄と一緒に何か買え、と5000円を渡してくれました。そして、親父、兄貴、私と3人でドラクエを探す旅に出ました。

 いよいよ待望のカセットが見つかった時、ふと値段を見てみたらたしか4800円だったかな? 兄貴は1000円の時計が欲しいと言って、3900円ぐらいで売っていた『魔界島』にしろ! とか言われましたが、「どうしてもこれがほしいー」と言ってゆずらなかった結果、無事に手に入れることができました(今思うとワガママ極まりないですが……)。

 ドラクエIIを買ってからは、それは猿のように毎日プレーして、わからないところは近所のお兄さんや知り合いに聞き回り、最後らへんでアトラスに負けたときには必死でレベル上げに励み、無事にクリアしたときは正直涙が出たことを今でも覚えてます。

 兄貴、あのことは覚えてないだろうけど感謝してるよ!

寄稿:Luna 男 1980年生 福岡育ち フリーター


稲妻の剣を求めて

 初めてやったのが、小4(90年)のかなり遅い時期。しかし当時の自分は、さあロンダルキアへ……というところでなぜかやめてしまいました。

 それから5年、中3の時に掃除してたら出てきた復活の呪文。「やるか!」で埃の被った本体・ソフトを引っ張り出し、レッツプレー。ダンジョンを抜けた時、あまりの感動で5分ほど動けませんでした。

 LV28ではやぶさの剣でシドーを倒したのだが、「これを使わなくて初めてのクリア」の自分ルールにのっとり、稲妻の剣を取るために敵を倒しまくり、「出しやがれ稲妻の剣!」と繰り返してましたが、遊びに来た友だちの「洞窟の宝箱にあるじゃん」の言葉に絶句。返せ、俺の1週間……。おかげでそのときLVは45、余裕でクリア。とにかく中3でも楽しめたいいゲームでした。

寄稿:糸賀 治彦 男 1980年生 茨城育ち フリーター


写し間違えで挫折

 ドラクエシリーズ、初めてのプレーは2でした。ふっかつのじゅもんが厄介でなりません。
「あ」と「お」や、「ふ」と「ぷ」と「ぶ」や、「は」と「ほ」などの、写し間違えによる挫折を食らえば食らうほど、やる気を失くしたものでした。

 ふっかつのじゅもんを間違って入力すると、「じゅもんがちがいます。」の表示。自分的には結構好きなBGMである『LOVE SONG 探して』が延々と流れるなか、仕方なくひとつ前のふっかつのじゅもんを入力せざるを得ないんですよ! 結局のところ、僕はドラクエ2をファミコンでクリアすることはできなかったのでした。

 のちにゲームボーイ版をやってつくづく思う。ロンタルギア難しすぎ!! サマル王子君、あんたがザオリクとメガンテ覚えてどうすんだよ!!

寄稿:ユーすけ 男 1983年生 埼玉育ち 学生


嫌いなモンスター

 私の嫌なモンスターをいくつか……。

1.キングコブラ系 → 2人目の仲間がいたときには苦戦したよー。先にでたらまず倒したけど、後の毒で皆全滅……。(毒消し草は持たない派なので。)

2.ホイミスライム → ホイミの効果を教えてくれたやつ。やたらと回復するので長期戦当たり前。序盤の嫌われ者、と名称にされるほど……。可愛い顔しやがって!!

3.ムカデ系 → 攻撃を喰らわない上になぜか魔法もへっちゃら。反撃も強いしいつも他の連中とべったり。学校の噂でした。

4.猿系 → 攻撃が強いので仲間になったばっかりのやつには会わせたくない連中。後になっても苦戦する。嫌な魔法をばしばしと唱える。

5.ゾンビ系 → 幽霊や死神はとかく、リビングデッドやアンデットマン等には困らせられました。タフで呪文をはきはきと唱え、臭い息を吐く強敵。さすがだとは思うけどここまでは行くかと……。あまりにも強烈な強さに本当にお手上げ状態。

6.バーサーカーと首狩り族 → かっこいいモンスターだなと思いますねー。強力な呪文をかけられても、「だからどーした」とものすごい反撃力。団体で出てきたらそれこそ降参者。レベルがいくつあっても、チームワークな彼らには本気で挑まないと赤子のようにひねられてしまいます。

 初のRPGがこんなんでは続編が怖いなぁとあのときは思いました。DQ2をサイチャレンジする人はこのモンスターに気をつけましょう。あ!! あと復活の呪文もね。

寄稿:近藤 たつや 男 1973年生 千葉育ち 小学校教師


「もょもと」

 すけさん、トンヌラ、アイリンなどなど、忘れられない名前たち。

 でも、一番忘れられない名前はもちろん「もょもと」であろう。「ゆうてい みやおう ……(以下略)」で復活の呪文を入力したときの、ローレシアの王子の名前だ。初めてクリアした時はもちろんこのデータ。

 『Love song 探して』は、一生耳から離れない。ノートとペンが必須だったことも今となっては懐かしい。ロンダルキアの雪景色を初めて目にした時、涙が出そうになった。

 今にして思えば、不便さが多かったからこそ感情移入もしやすい思い出深き作品なのではないかと思う。

 『果てしなき世界』は数多くあるドラクエの曲の中でもいちばんと言ってよいほど好きです。よくフィールド上で止まっては聞いていました。

寄稿:雪鷹 男 1979年生 宮崎育ち フリーター


「ベホマ」と間違い「リレミト」

あぁ〜ドラクエ
 父が作ってくれた 復活の呪文ノート(何故か英語ノート)
 生まれてはじめて 初めから終わりまで使い切った思い出ノート

あぁ〜ドラクエ
 あまりにやりすぎの僕に対して怒った母 IIのソフトを投げ飛ばす
 壊れたドラクエ また 新しいのを買ってくれた
 壊れたドラクエ 友達Tにあげてしまった
 壊れたドラクエ 「何で俺にはくれないんだ」と ほかの友だち数名がデモ

あぁ〜ドラクエ
 マホトーンで容易に崩れ去る ハーゴン
 破壊の剣+はやぶさの剣で葬られる シドー
 今でもそのシーン ビデオに保存してある

あぁ〜ドラクエ
 復活の呪文が上手くいった時 何ともいえない感動
 アトラスとベリアルに勝った時 手が震えていた
 ロンタルギア洞窟をやっとクリア 友達と感動のあまり 歓声 そして
 コントローラー引っぱり 音楽が一定のトーンで停止 画面はフリーズ
 「よし、最後に備えて」と気合い入れ
 洞窟で「ベホマ」と間違い「リレミト」

 小生ゲーム史上の最大のドラマがそこにあった

寄稿:masa 男 1975年生 広島育ち 教師 ホームページ


ありがとうパルプンテ

 ドラクエ2といえばパルプンテを思い出す。あれはまさしく超絶的な魔法だった。

 当時、エンディング間近までゲームを進め、胸を躍らせて家に帰った。ロンダルキアのほこらから続きを始める。確かあの頃は3人のMAXレベルが99ではなく、50、45、35だったような覚えがある。

 破壊の剣2回攻撃という、勇者にあるまじき卑劣な技を使いつつ、やっとたどり着いたハーゴンの間。小学生で頭の悪かった私はハーゴンに苦戦し、何を血迷ったかパルプンテを唱えた。「よにもおそろしいものをよびだしてしまった。」ハーゴンは逃げだした……。

 嘘のような本当の話である。恐るべしパルプンテ。おかげでラストのシドーもなんとか倒し、無事エンディングを迎えることが出来た。結果的にそれが、自身初のRPG初クリアだったのだ。

 あの時のパルプンテが無ければ敗北し、クリアを断念していたかもしれない。ありがとうパルプンテ。普段はろくでもない効果しか出ないが、あの時だけはこの魔法に感謝した。

寄稿:Peco 男 1979年生 兵庫育ち デザイナー


今も思い出すジャンプに載ってたあの呪文

 ゆうていみやおうきむこう……。

 今でもたまに思い出す、ドラクエIIの復活の呪文です。
たしか最後の方はぺぺぺぺぺぺぺと続いていたような……。

 あれから早十数年たった今でもバリバリのゲーム好きです。中でもドラクエIIは特に印象に残っているゲームのひとつです。Iの時よりもボリュームアップして、謎解きも学校での話題の中心でした。

 今は、こうしてインターネットがありすぐ知りたいことがわかりましたが、当時は学校での情報交換が主流でした。ちなみに上の呪文は『週刊少年ジャンプ』に載っていたと思います。あの狂いそうな復活の呪文を全てノートに書き写していたことも良い思い出ですよ。

寄稿:りゅーとパパ 男 1976年生 千葉育ち ホテルマン


手書き地図、復活の呪文……真っ白なノートはドラクエ一色に

 このゲームで初めてRPGというものに触れた。「そうび」の意味もわからないアホな小学生の僕は、素手でスライム三匹に立ち向かいあっけなく死亡……何だこのゲーム??

 しかし、全滅を繰り返し、友だちの助言などに助けられ、少しずつRPGの仕組み、世界の仕組みを理解していく。僕のRPGレベルに合わせてローレシアの王子のレベルも上がっていく。おなじみのレベルアップのファンファーレ。あの音を聞くと今でも意味無く嬉しくなってしまうのは僕だけじゃないはずだ。

 船を手に入れた時は、感動と不安で胸がいっぱいだった。これで僕はどこにでも行ける。でもどこに行けばいいんだろう? わからないまま気ままに旅をして、新しい町を発見した時の感動……新しい鍵を手にした時の、今までの町に戻ってのお宝探し。あんまりと言えばあんまりな、最狂のダンジョン、ロンダルキアの洞窟。

 手書きで地図を作り、旅の扉のワープ先をメモして、大事そうな人の話を書き写して、さらにあの間違えた時は悪夢としか言いようのない復活の呪文……。気づけば買ったばかりの真っ白なノートはドラクエ一色だった。今にして思えば、一番ゲームに情熱を持っていた頃だったのかもしれない。そしてまた、それだけの魅力がこのゲームにはあった。

 もしドラクエ1から始めていれば、その進化にもっと大きな魅力を感じていたのだろう。その辺が少しだけ心残りだった。

寄稿:らんちう 男 1980年生 東京育ち 会社員


辛酸を舐めさせられた「ふっかつのじゅもん」

 当時のRPGゲームには現在のようになセーブ機能がありませんでした。代わりに、「ふっかつのじゅもん(復活の呪文)」なるパスワードがあったわけですが、こいつにあらゆる場面で、僕達は辛酸を舐めさせられました。とにかく1回書き写したくらいではとても不安で、2つも3つも書き写したものです。

 特に「ば行」と「ぱ行」の見分けが難しかったのを覚えています。復活の呪文写しに必ず失敗する友人は、「24時間ファミコンの電源を切らない」と語っていました。復活の呪文はあらゆる意味で「ハーゴン」や「シドー」よりもやっかいで、僕達の前に大きく立ちはだかったと思います。

寄稿:たかゆき 男 1974年生 群馬育ち 会社員

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