『思い出のファミコン』が本になりました
 

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ドラゴンボール 神龍の謎 ドラゴンボール 神龍の謎
バンダイ
1986.11.27発売
©BIRD STUDIO/SHUEISHA/FUJI TV/TOEI ANIMATION ©BANDAI 1986

自分にとって一番のステータス

 このゲームをクリアした人はそういないでしょう。これをクリアしたことがあるのが、ぼくのステータスで一番すごいことだと思います。

 初めてこのゲームをやったのは親戚の家で、ヤムチャをかるがると倒すいとこのお兄ちゃんが神様に見えたものです。その後、家に帰ってから同じゲームを買いました。ゲームはクリアせずにはやめられない性格で、かなり苦労しましたがクリアできました。

 2回クリアしたことがありますが、感覚としては、どんなに上手な人でも何度でもクリアできるというようなゲームではありません。

寄稿:カカロット 男 1979年生 埼玉育ち 教師


クリアまで7年の歳月を要した

 運が無いとクリアできないという、史上最もクリアが難しいゲームでした。

 小学2年生の時に発売され、友だちの家でプレーして面白かったので、とても欲しくなったのですが、家が貧しかったので買ってと親には言えませんでした。なのにクリスマスプレゼントで買ってきてくれたのでとても驚きましたね。

 その喜びから夢中でプレーしましたが、初めてクリアしたのはなんと中学3年生の時!!!(笑) クリアまで実に7年の歳月を要した恐るべきゲームでした。その後、高校1年生の時にもう1回クリアしたので生涯で2度クリアしました。

 周囲にはクリアした人間が誰もいなかったので自慢でしたが、同時に証拠がなく(セーブ機能や動画撮影機能なんて無いからねぇ)、エンディングの内容を説明しても誰もこんな激ムズ極悪ゲームのクリアを信じてくれなかったので、とっても悲しかったです(笑)

寄稿:SHIN神帝 男 1978年生 兵庫育ち 自営業


半端でない終盤の難しさ

 相当頑張ったにもかかわらず、結局全クリできなかったゲームのひとつ。前半は割と原作に倣った展開を見せるものの、中盤から完全オリジナルストーリーとなり、そのストーリーも意味不明なものでしたが、小学生だった自分にはそんなことはたいした問題ではなく、大好きなドラゴンボールのゲームというだけで喜々としてプレーしていたものです。

 しかし終盤の難しさは半端ではありませんでした。敵に接触しなくても時間経過とともに自然に体力が減っていき、肉やケーキといった回復アイテムを取るのにも苦労していたので、毎回体力が持たずにゲームオーバーとなっていました。このゲームを普通にクリアできる人、目の前でプレーして見せてくれませんか?

寄稿:ぷーたろ 男 1974年生 山口育ち 公務員


2年連続の勘違い

 僕は確か6歳だった。サンタクロースのおじさんに頼んだゲームの名は、『ドラゴンボール 神龍の謎』。ファミコンすら買ってもらえなかった少年は、友だちの家でそれを見たのだ。パンチ、ジャンプ、かめはめ波……多彩なアクションギミックは大人になった今でも名作だと思える。しかし、少年がそれを『ソンゴクウ』と呼ぶことから悲劇が始まる。

 86年のサンタに母親は電話した。正確には電話したフリをした。サンタはこう答えたそうだ。「分かりました。孫悟空ですね?」本体がないのにソフトを欲しがる少年。

 サンタの約束に心を一刀両断されながら、ひたすら待ち続けたイブの夜に奇跡は起きる。父が本体を買ってきたのだ。(※あとで聞いた話、会社の方から安く譲ってもらったそうだ)紙袋から出てきた裸のファミコンを今でも鮮明に覚えている。これが僕とファミコンの出会いだ。「ソフトは明日サンタさんがくれるけんの!」。

 クリスマス・イブの夜に本体を手に入れた少年は、ひたすら朝を待ちつづけた。朝、枕もとにゲームソフトらしきモノを発見し、包装紙を力いっぱい破り散らす。「ん?『ソンソン』?」……とんでもない間違いにブチ切れた少年は、母親にサンタに電話させましたが、サンタはこう答えたそうです。「すんません。孫悟空ちがいでした。来年こそ!必ず……」しょうがなく少年は一年間待つことにします。センスのない大人たちは、時に何度となくとんでもないミスを犯します。

 次の年のクリスマス……。今思えば、サンタはサンタなりにみんなに尋ねました。「ソンゴクウって何ね?」すると、一番答えてはいけない祖母が答えてしまったそうです。「あ〜!ソンゴクウ言うたら猿じゃが猿!サルよね。サルに決まっとるが。」ファミコンが我が家に来て2度目の冬のことでした。『キングコング2 怒りのメガトンパンチ』このタイトル名は一生忘れません……。

 すべてのゲームは伝説となり、その後の僕の人生に多大なる影響を及ぼしました。あの日ファミコンと出会わなければ今の僕はありません。しかし、どのタイトルに感謝すれば良いのかは僕にも分かりません。

寄稿:DISFY 男 1980年生 広島育ち ゲームプロデューサー


今でも謎は謎のまま

 絶対クリアできないのに、思い出すたび何度でもやりたくなってしまうゲーム(クリアできないので自分の中ではクソゲー)。

 かめはめ波や如意棒など、なかなかいい具合に悟空が動きまくっていた気がします。何回やっても必ず戻ってきてしまう月ステージ・・・。絶妙のタイミングでケーキが出てやっと月を越え、武道会かなんかのクリリンを倒し、ここまでくれば月に戻ることは無いだろうと思ったがぎっちょん、どこまで行ってみても連れ戻されるところがサイコーです。

 ラスボスはピッコロ大魔王なのか(1986年に原作でピッコロって登場してましたっけ?)、はたまたピラフ一味なのか、あるいは天津飯? そこんとこがわからないのが残念であると同時に、このゲームを今でもやってみたくなるっていうことにつながっているのだと思います。シェンロンの謎は今でも謎のままです・・・。

寄稿:境 良太 男 1982年生 千葉育ち サラリーマン


高価な買い物

一番最初にかってもらったゲーム。当時5,000円くらいだったかな? あまり裕福ではなかった(貧乏だった)家で育った私は、幼いながらも家庭の経済状況を知っていたので(いやな子供)、当時大人気のファミコンを買ってくれとは言えなかった。

 私の6歳の誕生日にプレゼントとして父が買ってきてくれたのがファミコン本体とこのゲームだった。水色で特徴のあるカセットが、幼稚園児の私のハートをガッチリ鷲づかみだった。でも何回やってもヤムチャが倒せないんだよなぁ・・・。

寄稿:ようすけべ 男 1980年生 埼玉育ち 地方公務員


厳格な父がなぜか買ってくれた

当時大人気だった「ドラゴンボール」。その第1弾ファミコンソフトでしたね。私はその時小学2年生、近くのスーパーのおもちゃ売り場でこのカセットを発見し、すぐさま自宅へ戻り、父にねだった時の事を今でも鮮明に覚えています・・・。父はなぜか、このカセットはすぐ買ってくれました。とても厳格な父で、思い返せば「なんでだろう??」と不思議な気持ちでいっぱいです。

 それからというもの、父とファミコンで毎日毎日遊んだことを覚えています。カセットの値段は確か4,500円ぐらいでしたでしょうか・・・。あれから早や20年近くの時が過ぎました。今思えば、当時の父にはかなりの出費だったでしょう。その父も定年が近づいています。これからは今まで父や母に愛情をたくさんもらった分、親孝行していかなければならないなと・・・。それにしても懐かしい!!

寄稿:ひろひと 男 1978年生 秋田育ち 看護師

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