『思い出のファミコン』が本になりました
 

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プロ野球ファミリースタジアム プロ野球ファミリースタジアム
ナムコ
1986.12.10発売
©1986 NAMCO

語り草になった兄の戦法

 このソフトは、当時兄が非常に上手く、というか非情で対戦でまったく勝てた記憶がありません。

 兄の戦法は、ただひたすらファールを打ちまくる、というものでした。その結果、ピッチャーのスタミナが切れ、ピッチャーを交代し、またスタミナ切れするまでファールを打ちまくり、最終的に控えのピッチャーがいなくなったところで滅多打ちにする、というものでした。

 同様の戦法で、私の友人たちを完膚なきまで打ち負かした兄は、未だに友人の間で語り草になっています。

寄稿:かず 男 1976年生 愛知育ち 会社員


土曜の放課後にみんなで集まって

 初めて「ファミスタ」をやったのは小学生の時でした。クラスでブームになって、土曜日、学校が昼に終わって、みんなで友だちの家や私の家などで集まり、8人ぐらいで遊んでました。

 チーム選びはあみだくじで。Rチーム(一番強かった?)が人気があり、取り合いになったのをおぼえています。トーナメント方式でゲームをして、1戦目で負けたらずっと友だち同士がプレーしてるのを見なくてはいけなかったので、勝つのに必死だった記憶があります。

 昔のゲームはシンプルだったけど本当に熱いゲームばっかりだった気がします

寄稿:きみきみ 男 1975年生 熊本育ち 会社員


ファーストが捕った球をついファーストに送球

 すごく盛り上がったゲームでしたね。自分がファミスタ買ったのがバレてガキ大将に取られたりとか……。懐かしいゲームです。

 『ベースボール』からの移り変わりの時、守備がすごく難しかったのを今でも覚えています。とくにファーストが捕ったときに、ファーストに戻るのではなく、ついファーストに送球してしまう。悔しかったなー。でも楽しかった^^

 あと、シリーズで一時、実名じゃないときがあったじゃないですか。SMAPの中居くんが、「私が好きなプロ野球選手は“もんた”ですね」と言ったときは、このゲームを知っている人しかわからない笑いがあったのを覚えています。

寄稿:カイ 男 1974年生 沖縄育ち


Wチームでバントはかなり巧くなった

 ファミコン第1世代のファミスタ狂です。もちろん、最初は任天堂の『ベースボール』(当時タイトルってそのまんまでしたね)。

 あれはあれで、かなりやりこみましたよ。画面を横に往復させる超スローボール! でも結局四球で、自滅かストライクゾーンで待ち構えられて……なんてのもありましたよね。データ的なことは確認してませんが、全選手が同じ能力(?)ながら、4、5番はよくボールが飛んだ気がします。

 あの後の「ファミスタ」は、本当に革命的でしたね! 私は生粋の大洋ファンでしたので、愛用チームは W でした。おかげバントはかなり巧くなりやした(^^)。居合い切りの構えから見事に三塁線の上に落としたものです。機動力野球の極みでした(自画自賛)。

 でも、スーファミver.の中頃あたりから、いきなり使えなくなっちゃいましたけど……。あ、「ファミスタ」復活するんですよね! オンラインで!確か……。

寄稿:イイダ テツ 男 1974年生 石川育ち 営業主任


リセット制限ルール

 ランナーの走る音と打球の伸びる音しか印象にない、任天堂『ベースボール』ばかりプレーしていたあの頃。このゲームが発売された衝撃は大きかった。

 ホームランを打って花火があがる……すげー! BGMが流れている……マジかよ! 「ぴの」の足が速すぎ……反則だろ! 当時は寮生活をしており、テレビが1台しかなく、みんなと共有している状態だった。学校が終わるとテレビ室に集合して、みんなでよく対戦したけど、マジで楽しかった。

 みんな熱くなるのはいいが、初回とかに点数を入れられると、リセットボタンを押すのは止めなさいって! だから、「リセットはお互い1回のみ」という変なルールができたのは今考えると笑えるなぁ。

 リリーフピッチャーを先発させ、長いイニングをヘロヘロになりながら引っ張り、試合中盤以降に先発を登場させていたっけ。デッドボールが当たった時のバッターの顔と、「グボッ」という音がお気に入りでしたw

寄稿:長谷川 平蔵 男 1969年生 北海道育ち パン屋さん


忘れられない敗戦

 最初、とにかく守備が難しくて我がタイタンズはナムコスターズになかなか勝てませんでした。しかも10点差コールドゲーム敗戦を繰り返す日々。

 しかしある日、9回表を終わって12-12の大善戦! 9回裏1アウト2塁のピンチでセカンドゴロをファーストに送球。「よし! 2アウト! あと一人抑えて延長戦だ!」……と思っていたら、画面の端から2塁ランナーが生還。しばし呆然自失の俺……。

 普段は3塁で止まるのに、サヨナラの場面だけは突っ込む設定だったんですね。「ん?画面の切り替えが遅いな〜」なんて感じてはいたけど……。初勝利は覚えてないけど、この悔しい敗戦はずっと忘れないと思います。

寄稿:最後はやまもと 男 1968年生 茨城育ち 会社員


兄ちゃんはわざと負けてくれていた。

 野球好きの兄が、このソフトを買ってきた。僕も普通に野球が好きだったから、よく勝負した。負けず嫌いだった僕は、負けそうになるとよく涙ぐんでいた。でも不思議と僕が勝つことが多かった。

 「兄ちゃんはわざと負けてくれていた。」そう気づいたのは二十歳を過ぎてからだった。もうすぐ、仕事が忙しい兄が帰省してくる。帰ってきたら、またあのころのように勝負しよう。でも兄ちゃん、もうわざと負けてくれなくてもいいからね。本気で勝負しよう。

寄稿:ピノ 男 1977年生 秋田育ち 休職中


友だち同士でトーナメントにペナントレース

 とにかくはまりまくったゲームでした。今でこそあたりまえな、選手によって投げる球のスピードや曲がり角度に違いがあったり、バットに当たった時の飛距離に差があったり、といった部分を初めて演出したのがこのゲームでした。

 当然、クラスの野球狂どもはみんなこれにはまり、修学旅行の旅館で8人くらいのメンバーで集まってトーナメント戦をやったほどです。当時私はレールウェイズという最強チームを操作してたのですが、バース掛布岡田を要するタイタンズに決勝で敗れた記憶が^^;

 それ以外にも、30試合のペナントレースを親友とやって、その時のデータを全部記録し、MVPまで話し合って選出するというマニアっくなこともしてました。あれから20年もたったんですねぇ……。

寄稿:らんす 男 1970年生 長野育ち


スーパーカー軍団ホイールズ

 小学校時代、野球部に入っていてとにかく野球に夢中だった僕は、藁にもすがる思いで親にねだって買ってもらったのがこのソフトでした(でもなぜか買ったのはおもちゃ屋やデパートではなく、ホームセンターでした)。

 とにかく、はまりまくりました! 友だちとも飽きるほどやりました。今でこそパワプロややきゅつくなど、多くの野球ソフトがありましたが、原点はここにあると言っても過言ではないでしょう。それゆえに「史上最高の完成度のゲーム」といまだに言い切れるソフトです。

 だいたいの人が、「レールウェルズ」や「タイタンズ」や「ナムコスターズ」でやったとは思いますが、私がよくプレーしたのは「ホイールズ」です。やしき・かとう・ゆたか・たかはし・むらおかなど、走れる選手をずらり揃えてよくかき回したものでした。

それにしても当時ライオンズにいたくどう、いまだに現役ですから恐れ入ります。

寄稿:よし 男 1975年生 大分育ち 会社員


授業中に選手データの下敷きを眺めてた

 思えば、さして野球に興味があったわけでもない私が、プロ野球中継を熱心に観るようになり(最近はもう滅多に観なくなってしまいましたが)、やがて記録マニアになったのは、このゲームの影響だったのだと思います。

 当時のゲーム雑誌の付録に、全球団の選手データが書かれている下敷きがありましたが、私は授業中に暇を見てはその下敷きを眺め、「今年だったらこうだな」とか言いながら、最新版のチームデータをノートの余白に書き込んだものです。

 プレーしてももちろん楽しいのですが、データを眺めているだけでも楽しめました。

寄稿:風雲再起動 男 1971年生 岡山育ち 会社員


いつでもナムコスターズ

 ファミコンをかじった人なら誰でも知ってる野球ゲーム。単純明快かつ高い完成度をこの時代に達成したのはすごいことだと思う。

 それにしても、よく対戦で戦った。かなり上手であったせいか、私は大概強いチームは選べず、定番はナムコスターズ。しかし、戦友たちのほとんどがその後のバージョンで姿を消す。

 あれから時は流れた。しかし、どんな野球ゲームをするときも作ってしまう、初代ファミスタの戦友たち。「ぴぴ」「ぼすこ」「きやらか」「ふあいか」「らりいX」・・・。私の中ではまだ生きているのだ(もちろん、当時は控えだった「ぴの」も)。

寄稿:Z.Z 男 1976年生 兵庫育ち 国家公務員


3,900円だから買って

 発売日を見て思い出したんですが、冬に発売だったんですね。確かナムコのソフトは当時3,900円のものがシリーズ化されて売られていて、そのひとつがこれだったはずです。

 親に頼み込んで、「他のやつより安いから(通常の物は普通4,900円だった)買って」とせがんだら、「いいよ」と。そこでお金をもらい、おもちゃ屋さんに雪が降りしきるなか買いに行きましたよ。安くてとても楽しめたなと思うソフトでした。ああ〜なつかしい。

寄稿:あきたく 男 1976年生 青森育ち


18年間の不遇時代の心のよりどころ

 このゲームは今でも仕事のオフに遊んでいるゲーム。20年以上の虎キチ(熱烈な阪神ファン)の私は、常にこのゲームでタイタンズを使っていた。

 とにかく強い。ばあす・かけふ・おかだの3者連続ホームランをゲームでも打ったことがあった。18年間不遇の時代を過ごした私は、このゲームが心のよりどころだった気がする。

 そういえば、近鉄とオリックスの合併話が出たときに真っ先に思いついたのは、「あれ? レールウェイズじゃん」。そう考えたのは私だけではあるまい。今後フーズフーズも現実味を帯びてくるかもしれないな・・・。

寄稿:虎キチ太郎 男 1977年生 埼玉育ち 会社員


本当に、家庭はスタジアムになった

 当時、阪神ファンだった友人と飽きるほど対戦したゲームである。現在私が野球好きなのは、その友人と「ファミスタ」のおかげだと思う。それくらい影響を受けた一本。

 当時は特にファンだったチームも無かったため、私はナムコスターズでプレーしていた。しかし、この1作目のタイタンズは、阪神が85年優勝時をモデルにしたチームデータなため、メチャクチャ強い。

 放課後延々とタイタンズ対ナムコスターズをプレーしたせいか、いつの間にか野球に全く興味のなかったウチの祖母でさえ、ばあす、かけふ、おかだの3人は名前を覚えたという逸話すらある。

 現在、野球ゲームといえば、自分が監督になるタイプのシミュレーション要素が強いものが主流になりつつあるが、1作目にして既に完成品である本作を越えることは永久にないであろう。本当にこのゲームは家庭をスタジアムにした価値ある一本なのである。

寄稿:Peco 男 1979年生 兵庫育ち デザイナー


放課後は毎日どこかの家でファミスタを

 野球ゲームのスタンダードを『ベースボール』から受け継いで以来、10年近く守った功績は偉大だ。

 12月10日、友だちの家で初めてファミスタ(当時4年生)をやったときは、集まったみんなが「音楽があって気持ちいい! しかもランナーでると音楽変わるぞ!」「代打やリリーフがあってすげー」「あはは、ピッチャーがばててるよ」「うわー、鹿取がしっかりアンダースローだ」と感動し、私たちの心を釘付けにしたのは言うまでもない。

 もちろん、クリスマスには、「ファミスタ」を購入!! COM戦で毎日自主トレ、待ち受ける好敵手との対戦に備えたものだ。放課後は毎日どこかの家でファミスタをしていたような気がするなあ。

(私のお気に入りはホイールズ!! 1番やしき、2番かとう、3番たかぎのスポーツカートリオと、7番たかはし、8番に入れた代打のむらおかで走りまくり、投げてはえんどう、かけはた、さいとうできっちり押さえる。このパターンが一番性に合ってたなあ。)

寄稿:さくちゃん 男 1975年生 徳島育ち 教員


とにかく対戦が熱かった

 とにかく対戦が熱かった。1対1でやると実力差が出てしまうので、友達が集まったときは、3対3での対戦なんてのもやった(打順を1〜3、4〜6、7〜9番・投球回1〜3、4〜6、7〜9回といった感じで割り振る)。それでも実力差が埋まらないときは、ファミスタ'87「Mチーム」の登場である。

今残っている印象
 ・「おちあい」「ばあす」のフライ=ホームラン
 ・「ぴの」の二盗は投球したら刺せない
 ・「かわとう」はよく打つ
そして当時は虎党の黄金時代だったという事である。

今は昔。

寄稿:simahei 男 1971年生 愛知育ち 公務員

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