『思い出のファミコン』が本になりました
 

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火の鳥 鳳凰編 我王の冒険 火の鳥 鳳凰編 我王の冒険
コナミ
1987.1.4発売
©1987 KONAMI ©KADOKAWA SHOTEN ©TEZUKA PRODUCTION

CMを見て無性に欲しくなり駄々をこねて買ってもらった

 あれは、たしか5歳だったと思います。テレビ番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の合間のCMを見たときに、何か知らんが無性にそのゲームが欲しくなり、親に「これ買って」と駄々こねていたのをいまでも覚えています。

 そしてついに父が根負けして買ってもらいまして(誕生日でもないのに)、すごく喜んで、小さいながら、「これを絶対クリアしてやる」という使命感が芽生えていました。

 保育園から帰ると、真っ先にファミコンの前に座り、「火の鳥」をプレーしていました。兄貴(癇癪もち)という最大の妨害があったので、なかなか前に進むことができず、困ってました。

 3ヵ月たった日曜日の朝だったと思います。兄貴が友だちの家に遊び行って、ファミコンを独り占めできたので、“火の鳥クリア”というミッションに取り組みました。そして、3〜4時間たった時だと思います。火の鳥の顔のパネルが、どこにワープしても見つからないという事態に見舞われました。

 しかし、あきらめずにいろいろワープしたら、大和ステージ8に何とかたどり着いて、始まったとたんに画面が揺れ続けているのにびっくりしました。「きっと長時間ゲームしたから、ファミコンも疲れたんだ」と勝手に解釈して進めて行き、最後のパネルをゲット。ついに絵が完成して、火の鳥が羽ばたいて消えていくのをずーっとみて感動したのをいまでも鮮明におぼえています。

寄稿:華下ノビタ 男 1981年生 山口育ち 店員


「ゲームで感動する」ことを教えてくれた

 小学生の時分、うちはあまり裕福ではなかったため、お年玉はほとんど家計に入れられていました。その中から数千円だけもらえるお金を、ふたつ上の姉と出し合って、初めて自分たちのお金で買ったソフトがこれです。

 アクションの得意な姉がプレーし、考えることの好きな私が攻略法を担当して、クリアしました。いま思うと良くクリアできたなあと感心します。自分がアクション苦手だったため、私の言ったとおりにキャラを動かす姉を心底尊敬しました(笑)。

 火の鳥の絵が完成してあの音楽が流れ出したときの感動といったら……。「ゲームで感動する」ことを初めて教えてくれたのはこのゲームでしたし、また初めてクリアできたのもこのゲームでした。色々な意味で忘れられないゲームです。

寄稿:ミモカ 女 1975年生 山口育ち 自営業


「落ちる!!」と思った瞬間の鬼瓦

 このゲームはすごいハマりましたね! 小学生の頃に、いとこの家で初めてやったと思います。

 兄弟の中でも弟がうまくて、「落ちる!!」と思った瞬間、あの鬼瓦を出す速さ! 小学生ながらすばらしかったです! 穴に絶対落ちない弟を、尊敬のまなざしで見ていました。今では、弟と同じくらいに鬼瓦を出せるようになりましたよ(笑)

寄稿:サッティー 女 1981年生 神奈川育ち 会社員


お姉さんに教えてもらった

 このゲームを知ったのは、母親の友だちの家に預けられた時だった。そこの家には、ちょっと年上のお姉さんがいて、一緒にファミコンをしてくれた。その時お姉さんが、これはちょっと難しいと言って出してくれたのが、「火の鳥」だった。おいらはお姉さんに、かっこいいところを見せようとがんばったが、クリアはできなかった。

 それから数年して、父親が「火の鳥」をもらって来た時、おいらはお姉さんに見せられなかったクリア画面をどーしても見たくなり、毎日ワープを繰り返し、隠された最終ステージを探した。そしてついに鳳凰の絵を完成させ、エンディング曲と共に、去り行く火の鳥を正座しながら見送ったのである。

寄稿:チャリンコマスター 男 1979年生 千葉育ち


大嫌いだったはずの母がクリアしてくれて

 小学生当時、私は私立中学受験のために塾通いをしていて、あまり遊ぶことができなくなっていました。その上、親は小さい弟ばかりをかわいがり、孤独感に苛まれる日々を送っていました。

 そんな私はこのゲームにハマって、寂しさをまぎらわすかのようにのめりこみました。そして、これは母もやっていました。弟ばかりひいきして、私には目もくれない(と思い込んでいた)母のことが大嫌いでした。

 しかし、どうしても火の鳥がクリアできない!!と言っていた私の目の前で、母は一生懸命やって、クリアしてくれました。その時に母をものすごく心の底から尊敬しました。今でもクリアする時の、あの鳳凰の絵が埋まるのを思い出すだび、胸が締め付けられます。

寄稿:峰子 女 1979年生 愛知育ち 家事手伝い


妹と一生懸命だったあのころ

 火の鳥を遊んだのは小学生の時でした。当時私と2歳下の妹は、毎日ふたりでファミコンに向かって遊んでいました。火の鳥は音楽が印象に残っています。宇宙ステージに流れるBGMが、YMOの『ライディーン』に似ていて、曲を耳にすると火の鳥が浮かんでました。

 ゲームは鬼瓦を必死に作る我王に爆笑でした。ゲームのテンポが良かったのでプレーしていて楽しかったです。ステージをクリアするとひとつひとつ埋まっていく火の鳥の絵を、とにかく完成させたくて妹と頑張りました。学校の勉強はしなかったけど、ゲームには一生懸命だったなぁ(^^;。すべてのピースが埋まり、一枚の絵が完成され、エンディングを迎えた時は感無量になりました。

 今でもあいかわらずゲーム好きな姉妹なので、昔話に火の鳥も話題になります。大好きでした。

寄稿:セツナ 女 1975年生 埼玉育ち 会社員


自分の技に酔った

 最近マンガを購入して、このゲームにはまったのを思い出しました。ダッシュで死を恐れず穴にジャンプ、そして空中で鬼瓦の足場作成。自分の技に酔ったのを覚えてます。火の鳥の顔の部分がある大和の8面をさがすのにかなり苦労したような・・・。

 でもこれ、原作とはほとんど繋がりのないオリジナルだったんですね。でも今やっても面白い。今でもクリアできます。

寄稿:前田 男 1976年生 三重育ち 会社員


鬼瓦一筋

 小学生の頃、猿のようにハマりました。このゲームで第一に語るべきは、↓+Bボタンで「ピョイ」っと出せる「鬼瓦」の存在でしょう。むしろ鬼瓦一筋、鬼瓦バカ一代ですか。

 この鬼瓦、時には足場にし、時には防護壁にもなり、そして落とし穴に落ちそうな時に命綱の役目も果たします。コレはかなり斬新なのではないでしょうか? 見事にゲームにマッチし、面白さをアップさせています。というより、コレがなければ他のゲームとかわらないですね(笑)。それくらい重要な存在です。意味も無く空中で連続で出してみたり、ボスキャラを閉じ込めるのが楽しかったです。

 音楽もかなり良かったですね。ボス戦時の音楽や来世ステージの音楽がいまだに耳に焼き付いてます。ちなみに、スタッフロールは開発者の名前がバカ丸出しで面白いです。 「LOVELY HIDEKI」「SHIMONETA KENJI」って・・・。あはは。

寄稿:リキゴロー 男 1981年生 埼玉育ち フリーター


ワープは自力で全部見つけたはず

 僕は親や親戚のおばさんの影響で、3才頃にはゲームをしていました。このゲームは僕が幼少の頃やった中で、一番印象に残っています。親戚のおばさんから借りてやっていました。

 所々にあるワープが好きで、多分ワープは自力で全部見つけたのではないかと思います。仏像を動かしてワープしたところは、今でも鮮烈に頭の中に残っています。ボス戦でも燃えました。いつもゴリ押しで倒してました(笑)。ステージも宇宙みたいな所や北極みたいなところなど、色々な所があってとても楽しんでました。

 結局、クリアはできませんでした。ワープしすぎてスタートに戻ってやめてました(笑)。

寄稿:とよ 男 1985年生 福島育ち 高校生

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