『思い出のファミコン』が本になりました
 

思い出のファミコン_トップへ


忍者じゃじゃ丸くん 忍者じゃじゃ丸くん
ジャレコ
1985.11.15発売
©1985 JALECO

ガマパックンで姫をパクっ!?

 このゲームはかなりやりこんだ思い出がありますねぇ〜。色んな隠れ技があって、二度打ち、姫ボーナス(257000点ボーナス)は普通に使ってました。

 それからこの技(バグ?)は、当時の大技林にも、今現在も情報がないものの、ガマパックン中に右上でジャンプしてるともう一段上に行けるんだけど、そのまま姫の所に行くとカエルが姫をパクって食べることがあった! 最初はバグかと思ったんだが、キチンと点数がもらえたから裏技だと思います!

 詳しい点数は忘れましたが、当時一緒に遊んでいた従兄弟にもやって見せたのでマジです。誰かこの技知る人はいないですかねぇ♪

寄稿:怪力熊男 男 1972年生 千葉育ち フリーター


「ハットリくんじゃなかやん!」

 本当はハドソンの『忍者ハットリくん』が欲しかった。『忍者じゃじゃ丸くん』は母子家庭だった当時、水商売で俺たち姉弟を食わせていたお袋が、ハットリくんと間違えて買ってきたゲームだった。

「ハットリくんじゃなかやん!」

 期待を裏切られ、そんな風に不貞腐れていた俺を、普段ファミコンなんかしない姉が、

「面白かよ! ホラ、遊ばんね」

 と、テレビの前へ誘い、渋々コントローラーを握った。背後でお袋の声を殺した嗚咽が聞こえてくるものだから、その日はなんだかもう必死の思いで、ゲームに没頭しました。

 休日にも食卓にも貧しい思い出には事欠かない少年時代でしたが、不思議とツラくはなかった。むしろ親子三人、手のひら大のささやかな幸せが、キラキラと大切だったあの頃。4つ違いで恐怖の対象だった姉の意外な優しさと、子供心に無敵と信じて疑わなかった母のハッとする弱さを教えてくれた『忍者じゃじゃ丸くん』は、僕にとって忘れ得ぬゲームです。

寄稿:中林あきお 男 1974年生 福岡育ち 旅作家


「一緒に遊んでくれてありがとう」

 小学5年でクラス替えがあって、身体が不自由な友だちと一緒になった。しばらくは接点がなかったのだが、6月になって、お互いファミコンをやっていることを知り、そいつが家に遊びに来ることになった。その時に持ってきたのが、このソフト。このゲームを通じてお互いに意気投合し、その日そいつはこのソフトを置いて家に帰った。

 次の日、学校で「学校が終わったら遊ぼう」と誘われたが、あいにくその日はスイミングスクールの日のため断り、その次の日も、習字教室のために断った。そして習字教室で習字をしていたら、窓の外から近くで車が何かにぶつかる音がし、しばらくして救急車のサイレンの音が聞こえた。その事故によって、そいつが帰らぬ人になったことを知ったのは次の日だった。

 クラス全員で葬儀に参加したときに、そいつの母親に話しかけられた。家で遊んだ日はものすごく嬉しかったらしく、家に帰った後もずっとその話ばかりしていたらしい。「一緒に遊んでくれてありがとう」と感謝の言葉をもらった。

 その時になって初めて、あの日一緒に遊べなかったことを後悔した。手元にあるソフトをその母親に返そうとしたとき、そいつのことを想ってまた遊んで欲しい、と譲り受けることとなった。

 それから毎日、このソフトをやり込んでいたが、しばらく経ったある日、そいつの兄貴が教室に来て、ソフトを返してほしいと言ってきた。その母親とのやり取りのことを伝えたが聞く耳持たず、仕方なく返却することにした。

 返却のときは、友だちが事故で亡くなったと聞いたときと同じくらい虚しかったことを、あれから30年経った今でも思い出す。

寄稿:pko 男 1974年生 大阪育ち 会社員


父の決断「うちが買う!」

 このソフトが、ファミコン本体と一緒に買ってもらった最初のソフトです。その日は父と、ファミコンではなく、何か別のおもちゃを買う予定でお店に行ってました。レジ付近でおもちゃを探していると、カウンターに一本の電話が……。

 それとなく耳にしていると、どうやらファミコン本体の在庫確認の様子。まだファミコン本体が品薄の当時です。女性店員の「1台だけあります。」という受け答えが言い終わるか終わらないかのタイミングで、父の「うちが買う!」と女性店員へアピール! その瞬間、電話の相手へ「すみません。今売れてしまいました。申し訳ありません。」と女性店員。

 買う予定だったおもちゃこそ買いませんでしたが、自分にとってはサプライズな出来事でした。時折みせた父の意外性ある行動、買い損ねた人に申し訳ない気持ちが今でも懐かしく……。

寄稿:ユリトモのパパ 男 1975年生 埼玉育ち 会社員


プレーはトロッコの時とガマパックンの時だけ

 兄貴が買ったソフトでした。ウチでは何故か親父がこのゲームにやたらとハマッていました。そして何よりも、上手かった。そりゃもう、ガキの俺はともかく、持ち主の兄貴でさえ太刀打ちできなかったほどです。

 敵一匹に対して手裏剣ひとつしか使わずにボーナスを得たり(時には倒した後に落ちていく敵を二度打ちしてはニヤニヤしてましたが……)、提灯を取るときは必ずポーズをかけたり、もちろん7面の裏技も欠かしません(親父は「俺が見つけたんだ!」と息巻いてましたが、第一発見者ではないにしろ、ネットが無かったあの時代、おそらく本当に自力で見つけたと思われます)。そうそう、魂も残さず全部取ってました。

 結局、いつの間にか“兄貴の物”から“親父の物”に変わってたこのソフト。俺はといえば、親父のプレーを横で見るばかり。だけどトロッコの時とガマパックンの時だけは変わってもらい、それなりに楽しかった記憶があります。

 先日、久々に親父が「やりたい」と言い出したので、居間のテレビでやらせました。その時ですら、ガマパックンになると「ほら」と言って俺にコントローラーを渡そうとした親父を見て、あまりの懐かしさに不覚にも泣きそうになりました。本当に思い出深いソフトです。

寄稿:task4th 男 1981年生 埼玉育ち ホテルマン


ガマパックンが空中歩行

 このゲームはかなりやりました。1ループした次の面で、カクタン7匹を従えたおゆきの登場にびっくりした覚えがあります。

 やり込んでると、すんごい偶然で発生するバグに遭遇することがあります。ガマパックンは残機4でも発生しますが、「残機3の状態で、天井に爆弾を出したまま、敵を倒し、得点で1upし、ガマパックンになる」ガマパックン状態で天井の爆弾に当たると、ガマパックンが空中歩行します。

 発生条件が難しい割りに、結果が「ふーん」って感じなのが泣けますが(笑)。私の中でこのバグを出すと「ラッキー」と自画自賛でした。

寄稿:みよたん 女 1975年生 東京育ち 主婦


制作に関わってました

 私は美術系大学生の頃、バイトでゲームデザイナーをしていた者です。現在のゲームから比べたら信じられないくらい稚拙なグラフィックですが、当時はそれはそれでめまいのするようなデータ量で、バイトなのに会社で徹夜なんて当たり前だったし、ドット絵ばかり描きまくってたお陰で、外の景色がドットで見えたものです(笑)

 ちなみに私が制作に関わったのは、『忍者じゃじゃ丸くん』、『ドラゴンバスター』、『うる星やつら』などでした。思い出コラム、辛口の内容もありますが、とても懐かしく嬉しい気持ちで読ませていただきました。あの頃はインターネットなどなく、自分たちの作ったソフトがどんな人たちに買われていって、どんな思いでプレーされてたかなんてほとんど知る機会もなかったですから……。

寄稿:あーまる 女 1966年生 京都育ち 工芸作家


トロッコGet!と思ったら爆弾

 子供の頃、間違いなくこのゲームで一番遊びました。おゆきをなめてたら氷柱にやられ、カラカッサにはあしらわれ、トロッコGet!と思ったら爆弾で、姫の尻を突こうと思ったらなまず太夫が爆弾投げ初めて……。

 いろんな思い出がいっぱい詰まったソフトです。ゲームをあまりやらない父が『ゴルフ』以外にはまったソフトでもあります。最高得点の写真を撮って、当時あったゲーム雑誌に投稿したこともありました。

寄稿:GERUGUGU 男 1974年生 神奈川育ち 市議会議員


点数より面クリか

 近所の長崎屋で買ってもらったこのソフト。頑張って手裏剣8枚クリアや、さくら姫を下からこずいてのボーナスなど、点数ゲットに弟と競った日々。

 そんなある日、ゲームなどほとんどやらない母が、点数をあげることに一生懸命になってた我が姉弟を尻目に、21面までクリアしてたのは驚愕した。このソフト、メインは点数ではなく面クリなんだと思い知らされた。しかしいつ修行を積んだのだろう? 未だに母には追いつけない。

寄稿:プイ 女 1976年生 神奈川育ち フリーター


初めて買ったあの正月を思い出す

 当時、お正月にファミコン本体と一緒に買ってもらったカセットが『忍者じゃじゃ丸くん』でした。その頃はテレビゲームをやるのが初めてで、凄く新鮮でした。じゃじゃ丸くんもかなりはまってました。親に、「もうあと30分だけやで〜」と言われながらやってた記憶があります。

 カラカッサには苦労しました〜! あと、初めはピン坊やカクタンにも苦労しました。それと火の玉やなまず太夫の爆弾攻撃! なんといってもガマパックンには凄く助けられました!

 今でも『忍者じゃじゃ丸くん』を本体に差してスイッチを入れると、当時のお正月の雰囲気や記憶が甦って来ます。

寄稿:ハチロク 男 1975年生 京都育ち 自動車整備士


ファミコンを物置の中に隠されても探して遊んだ日々

 15年以上前、父が買ってくれた最初のソフトが『忍者じゃじゃ丸くん』だった。

 もう楽しくて楽しくて。ファミコンを物置の中に隠されても探して遊んだ日々。ACアダプタを隠されてもラジカセのアダプタで代用して遊んだ日々。

 そういえば「さくら姫」を当時好きだった子に置換えてプレーしてた。爆弾をトロッコと間違ってとってしまい、爆死したじゃじゃ丸は20人以上いたっけ。透明薬をとっても、ピン坊、カクタンには何の意味も持たないことに気付くのに時間をかなり費やしたのもいい思い出。

 それにしても敵が死ぬ時の効果音が「チュッ!」という音なのはいかがなものか。可哀相過ぎると思うのは自分だけだろうか?

寄稿:ウィンクル 男 1975年生 愛知育ち 医療機器営業

あなたも思い出コラムを書いて送ってみませんか?