『思い出のファミコン』が本になりました
 

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マリオブラザーズ マリオブラザーズ
任天堂
1983.9.9発売
©1983 Nintendo

「ビビビ」で突然パニックに陥る親父

 小学生の頃、頑固で口数の少ない親父が唯一、子供部屋に来て母親とやるゲームが『マリオブラザーズ』でした。協力プレーでステージを進めていくも、やっぱり殺し合いになるのがこのゲームのとどのつまり。

 親父は出現音からか、ファイヤーボールのことを「ビビビ」と呼んでおり、ピンクガ二よりも恐れていました。ファイヤーボールが出現すると突然パニックに陥る親父を見て、弟と2人で涙が出るくらい笑ったものでした。

 今想えば、『ファミリーコンピュータ』って抜群なネーミングですね。

寄稿:ナカオ ヒサオ 男 1978年生 鹿児島育ち 自営業


107面の心の記録

 当時、小学3年生ぐらいだったと思います。操作性の優れたゲームでしたが、持ちソフトが2本しかないうちのひとつというのもあって、相当やりこみました。

 このゲームは記憶が正しければフェーズ9(9面)ぐらいからループに入るのですが、面白くて面白くてやり続けました。そして2時間半後……とうとう99面までいきクリア。100面(表示では00面)までいき、やがて得点も999300までいき000000に行ったのです。それからは飽きと疲れと緊張感が切れてしまったことから立て続けにミス、最終的に107面までいきました。

 この快挙を誰かに知らせたくて兄や友だちにどんなに説明しても誰にも信用してもらえず、悲しい思いをしました。当時はカメラを撮ることも敷居が高かったものですから、証拠写真はありません。そんな心の中にしまってある記録があるゲームです。

寄稿:とくよし 男 1975年生 愛知育ち 会社員


カニすべて怒りモードから殺し合いスタート

 このソフト、よく友だちの家にお邪魔してやりこんだなー。協働プレーから殺し合い、それが僕らの定番で、カニステージまでは仲良くやり、カニ4匹をピンクの怒りモードにしてから、殺し合いが始まるのだ。

 ふたりともかなりの腕前なのか、なかなかいい勝負だったように覚えております。死んだら復活する真下で待機し、相手をおろさせないようにする。もちろんカニと火の玉を避けながら、相手が落ちてきた瞬間にジャンプを同調させ、操作不能なまま殺すのが主流でした。

 小学生なのに、何てプレーをしてたのだろう。その友だちとも20年近く会ってないが、ゲームで対戦したのは覚えてるかな?

寄稿:おっさん 男 1975年生 兵庫育ち 会社役員


おろおろしているうちに全部青い亀

 我が家にファミコンと共に一番最初にやってきた『マリオブラザーズ』と『麻雀』。ところが、マリオは不良品で、真っ黒な画面しか映らず。交換する期間がとても待ち遠しかったのを覚えています。

 そして、ついに初ゲーム! しかし、説明書の「蹴る」の漢字が読めずに、敵をひっくり返すところまでは分かったのですがその後どうしていいのか分からず、おろおろしているうちに生き返って、全部青い亀になってゲームオーバー。「なんだこれー」と思いました。

 でも、ルールが分かってからは、姉と2人でマリオの世界にどっぷりはまっていったのでした。私たち姉妹は、協力型。助け合い、ボーナス面ではコインは半分ずつ取って、延々とやっていました。四角いゴムボタンが取れてしまうほど、熱中した思い出のゲームです。

寄稿:くまのみん 女 1973年生 神奈川育ち 主婦


映像が出た瞬間、家族みんなで感動した

小学校3年生の時、母にねだってファミコンを購入してもらい、その時一緒に買ってもらったのがマリオでした。

 父親が帰ってくるのを待ち、テレビにファミコンを接続してもらい、初めてマリオのスタート画面が映し出された時、家族みんなで感動したことを今でも覚えています。ちょっとしたことだったけど、子どもの頃の気持ちって覚えているものですね。

 大人になり、今ではゲーム自体することもなくなってしまったけど、もう一度あの時の感動とともに、父親とマリオをやりたいです。

寄稿:so 男 1974年生 広島育ち 経営者


「カメが難しい」「カニも難しい」

ゲームをまったくやったことのないという会社の後輩が、「ゲームをやってみたい」という理由でファミコンを購入。そして、「ソフトが無い」と嘆いていたので、大切に持ち歩いていたマリオブラザーズ(昭和57年購入)を貸してあげました。

 そして感想を聞いたところ、「カメが難しい」とのこと。「カニも難しい」とのこと。フライの面に行ったらどうなることやら。久しぶりにファミコンを出してドンキーでもやろうかなと思ったのでした。

寄稿:のび介 女 1975年生 福島育ち 営業


オレたちブラザーズ

ファミコンと同時に購入したソフトがこれでした。それまではゲームウォッチで遊んでいたので、テレビ画面に映し出されたカラーのキャラに唖然! 死ぬ時のマリオのリアクションがマヌケすぎて、ゲラゲラと笑い、小3のオレはその都度、失禁していた記憶があります。

 2人プレーの殺し合いでは、相手をレシーブしながら敵キャラの元にトスをする「バレーボール殺法」や、相手を踏みつけ、凹んだところで重なり、勝手に歩かせる「妖術」など、兄との戦いの中、いろんな技が生まれました。が、それよりも多くを学んだのが協力プレーでした。

 思えば、仕事での役割分担を初めて実践したのが『マリオブラザーズ』じゃないでしょうか。2人好き勝手にモンスターをひっくり返したりコインを取っていると、いつかリズムが狂います。

 そこでオレたち兄弟は役割分担をしたのです。弟のオレがパワー床の上に乗り、中央の床に落ちてきたモンスターをひっくり返し、兄がそれを蹴り飛ばすのです。当然スコアは兄に加算されますが、そんなことは問題じゃありません。すべては100面に行くためでした。とはいっても、100面クリア後にエンディングが待っていたわけではないのですが……。

 オレを信頼してモンスターに突撃する兄に、誤ってカニをぶつけて殺してしまったこともありますが、兄は「オレが今、1人マリオを失ったことに問題があるわけではない。オレがお前を信頼していることが重要なのだ。マリオを1人失ったことなどかゆくもないわ!」と笑顔をむけたのです。

 スーパーマリオも確かにスーパーの貫禄に恥じぬ名アクションゲームですが、オレとしては、『マリオブラザーズ』にいろんなことを教えてもらった気がします。

寄稿:福島 幸治 男 1975年生 京都育ち 小説家 ホームページ


「コインは5枚ずつね!」

ファミコンで初めてやったゲームが『マリオブラザーズ』でした。当時私はファミコンを持っていなかったので、友だちの家か駄菓子屋やデパートのゲームコーナーなどで遊んでいました。

 友だちとやると、ボーナス面で必ず「コインは5枚ずつね!」と言っていたのを思い出します。とにかく夢中でやっていました。後になってようやくファミコンを入手しましたが、その頃には他のゲームに心を奪われ、『マリオブラザーズ』は入手せず……。でも、いまだに「買っとけばよかったなぁ……」と思うほどの名作でしたね。

寄稿:Q子 女 1972年生 東京育ち 会社員


ムサシの脱糞

 一生忘れられない事件がこのゲームに関わっているというお話です。

 小学生のころ、ひとつ上の兄はこのゲームを飽きもせず、近所の悪ガキたちをうちの2階に連れ込み、ゲームに精を出していた。またいつものように、2階でゲームをしていた兄と、兄より3つ下のムサシとゲームをしていた。

 1階の庭越しの部屋にいたあたしは、ただならぬ音を耳にした。ドドドドと、階段を駆け下りる音なのだが、あまりに尋常ではない音だった。そしてふと庭を見てみると、ムサシがしゃがんでいるのが見えた。何をしているのだろうとハテナ顔だったあたしに、口をあんぐりさせるものが目に飛び込んできた。それは、ムサシが立ち上がってむき出しになったお尻だった! あろうことか、ムサシはうちの庭でうんこをしていたのです。そして目にも止まらぬ速さでズボンを上げ、走ってどこかへ去っていきました。

 2階に上がり、兄に何事かと問うと、「突然ムサシが立ち上がって……意味が分らない」という答え。兄は何事もなかったように、あたしのカオを見ることもなく、ただゲームの画面を見ていた。あたしはこのゲームを一生忘れないでしょう……。

寄稿:よし子 女 1983年生 北海道育ち


来る日も来る日も楽しみ方いろいろ

 当時小学2年生だった僕は、兄とともにおばあちゃんとおじいちゃんに連れられて、隣町のデパートまで買いに行きました。兄弟それぞれ1本ずつという超太っ腹な買い物に、手にしたうちの1本がこの『マリオブラザーズ』でした。(ちなみにもう1本は『ドンキーコングJr.』)。

 兄が苦労してテレビの後ろで配線をつけた後、スイッチオン! 画面に広がる『マリオブラザーズ』のタイトルにしばしうっとり。そして、スタート!!

 明け暮れました・・・。兄はもちろん、兄の友人や自分の友だちと来る日も来る日も遊びました。面クリ(100面)、殺し合い(すごいなぁ^^;)など。スタートボタン連打の床抜けや、カセットを斜めセットして遊べる穴だらけステージなど(まるで、面作成モードで作ったみたいだったなぁ。しかも毎回変わるから飽きなかった^^)、楽しみ方もいろいろでした。

寄稿:☆ジュニア☆ 男 1975年生 群馬育ち 派遣社員


カブト虫は出るの?

 本体と一緒に買ってもらったソフト2本のうちの1本がこれでした(もう1本は『ロードランナー』)。今考えれば、レアなソフトが他にあるにもかかわらず、2本買ってもらう約束の中で一番最初に選んだソフトなので、私の人生初のファミコンソフトでした。

 実際のところはバグなのでしょうが、ジャンプ中にスタートボタンを連打すると「床をすり抜ける」という裏技がはやり、それを発生させるのに熱中した記憶があります。また、当時の話で良く覚えていないのですが、本当に起こるかどうかわからないものの、ある条件を満たすとカブト虫が出るなんていう話を聞いたことがあります。いまだに私にとって、謎の多いソフトです。

寄稿:ごりぽん 男 1973年生 静岡育ち 会社員


STARTボタン連打により・・・

 『マリオブラザーズ』の2人協力プレーは、大体において「対戦」になってしまうものではないでしょうか? 弟とのプレーも同様、画面の中も外も、兄弟であるにも関わらず、下からマリオを押すルイージや、最下部の土管の影に隠れようとするルイージを追い出すマリオなど、仲の悪さ爆発です。

 そんな最中、相手を邪魔する画期的な技が弟によって編み出されました。後に親からも禁断の技指定になった「STARTボタン連打」技! ・・・単にポーズ連続で相手のペースを乱すというだけなんですが。

 おかげで1Pコントローラーの取り合いになり、画面外で対戦する羽目になりました。おまけにSTARTボタンの押しすぎで、押してもいないのに連打状態になるようになってしまい、他のゲームにまで支障が出てやむなく修理に出すことに・・・。

 兄弟対戦の結末は、親に仲良く怒られるという結果で終わりました。

寄稿:Walter 女 1972年生 大阪育ち 会社員


ゲーマーだったおじいちゃんと2人プレー

 なかなかのファミコンゲーマーだったうちのおじいちゃん。そんなおじいちゃんが初めて買ったゲームが、『マリオブラザーズ』でした。

 当時幼稚園くらいだった僕は、2Pでルイージをあやつり、マリオにいっぱいいたずらしながら楽しく遊んでいました。マリオを下からつついたり、踏みつけてジャンプ台にしたり・・・。シンプルなのに奥が深かったなぁ。

 今では、おじいちゃんは目を悪くし、すっかり老け込んでもうゲームはやっていません。僕一人でプレーするのはなんか寂しくてしょうがないので、今は家の押入れの中に眠っています。

寄稿:つき 男 1984年生 愛知育ち 大学生


"Mario spielen" 「(独)=テレビゲームをする」

 中学1年の頃、ファミコンを買って初めてのゲームが『マリオブラザーズ』でした。さんざん遊びまくり、100面クリアもしました。

 101面の開始時には1面の時と同じ曲が流れるんですよね。あ、あと、「カメやカニが床に着地する瞬間にポーズをかけると、床をすり抜けることがある」というのを発見しました。

 時が流れて、数年前にドイツで働いていたのですが、同じ歳のゲーム好きなドイツ人も、当たり前のように「マリオ」を知っていました。こんな遠い国の同世代も、自分と同じ体験をしていたんだと思うと、なんとなく嬉しくなりました。

 驚いたのは、ドイツ語学校で習ったのですが、「遊ぶ」はドイツ語で "spielen"(シュピーレン)と言い、例えば「テニスをする」はドイツ語で "Tennis spielen" となるのですが、"Mario spielen" と言うと、マリオに限らず一般的な意味で、「テレビゲームをする」になるのだそうです。

 ファミコンとマリオの偉大さに驚かされました。

寄稿:さとー 男 1971年生 千葉育ち SE


二段ベッドでマリオごっこ

 僕のファミコン初体験がこのゲーム。すべてはここから始まった! シンプルな操作とルールですが、裏を返せば自由度が高いってことです。二人協力で進むもよし、殺し合いをするのもよし。後の『アイスクライマー』でもそうですが、二人プレーだとゲームの本質を超えて楽しめますよね、いつまでも飽きることなく。

 これにハマッてから、よく二段ベッドでマリオごっこをやりました。ベッドの上段にいる友だちを下段からジャンプして天板(上にいる人からすれば床)を押し上げるだけという、非常にシンプルな遊びです。今思うと何が楽しかったのか不思議ですが、当時は実際にゲームの世界にいるような気分になっていたのでしょう。

 そう、ファミコンに触れている気がするだけで楽しい。そこまで僕らはファミコンに夢中だったのです! あんなに熱中できたものがあった自分に幸せを感じる今日この頃です。
※マリオゲームは危険なため、友達の親から禁止令が出ました。

寄稿:ライデン 男 1974年生 大阪育ち 企画戦略部署兼任営業担当


100面越えの姉

 小学5〜6年の頃。4本目のカセットとして買ってもらったのがこの『マリオブラザーズ』でした。

 姉と二人で協力プレー、ボーナス面ではコインの奪い合い。しばらくの間二人で楽しんでいたのですが、数日が過ぎた頃のこと、姉が一人で何面まで行けるか挑戦する!と言い出しました。10面、20面、30面・・・まだ終わらない。50面、60面、70面・・・姉の腕前は、神だ!

 でも当時の俺は、自分が遊べないことに苛立ちを感じずにはいられませんでした。80面、90面、100面!?(確かステージ数の表示が変になったと思う)そこまで見届けて、涙のリセットボタンを押しました:;

 俺のリセット攻撃がよほど頭にきたのか、それともさすがに燃え尽きたのか、それ以来、二度と一緒にプレーすることはありませんでした・・・。姉のマリオ100面越えは伝説として語り継いでいます。

寄稿:まるまる 男 1971年生 北海道育ち プログラマー


デパートのゲーム売場に入りびたり

 当時としては世界初の二人同時プレーが可能だったらしいアーケードーゲームの移植版。世界初は知らなかったが、100円で2人で楽しめるので よくカモにされたっけ(笑)。移植されてからはデパートのゲーム売場に入りびたりだった日々。でもやっぱりファミコンはアーケードにはかなわなかった。

 亀の復帰時の甲羅すっぽぬけが省略されてて、そのまんま起き上がるだけ・・・。後に帰ってきたマリオブラザーズでちゃんと移植された時は嬉しかったな。

 この間ゲーセンに行ったらレトロ特集とかで、アーケード版が置いてありました。早速やってみましたが、ファミコン慣れしてるためすぐ死んでしまいましたね。滞空制御がシビアなのでジャンプして空中で敵をかわせないし、火の玉も数と速度が速くてメタメタにやられました。

 完全移植じゃなくても楽しめるというか、それはそれでいいかもしれませんね。

寄稿:クロービス 男 1970年生 三重育ち 会社員 ホームページ


ディズニーすら及ばない巨大なアミューズメント

 私の初プレーのファミコンソフト、それが『マリオブラザーズ』です。

 アレは1983年の11月頃、友人の誕生日会に招待されたときのこと。さすがに誕生日会なので手ぶらでは行けず、わずかな小遣いの中から『キャプテン翼』の最新刊をプレゼントしました。たしか三杉くんが活躍していた巻です。心臓病なのにあんなに命を懸けてサッカーをする小学生がいるのだろうか?今にして思えばめちゃくちゃな漫画です。

 ……話はそれましたが、その友人宅にあったのが発売まもないファミコンとマリオでした。当初はピンクパンサー(内輪ではピンクのカニの事をピンクパンサーと呼んでいました)の速さに恐ろしさすら感じました。

 もー何もかもが新鮮で、セレクトボタンで1人用2人用、難易度のA・Bを選択するだけでも感動していたことを憶えております。ココからが私のファミコン人生のスタートでした。

 ケチな親から本体とカセット両方買ってもらう事が出来ずに、クリスマスに『マリオブラザーズ』を買ってもらい、お年玉でファミコン本体を購入しました。

 私にとってディズニーなんか足元にも及ばない巨大なアミューズメント、それがマリオでありファミコンであります。

寄稿:ババモZ 男 1972年生 愛知育ち 平社員


まじめに6時間、クリアし続け161面

 まじめに6時間、クリアし続け161面。おかげで単純作業の修行が出来ました。

 荒業ですが、テレビの垂直同期をいじることでできる分身の術にハマッていたのは多分私だけでしょう。『ポパイ』『ドンキーコング』などでも同様に楽しんでました。普通に遊ぶのでは飽き足らない変わり者の私です。

寄稿:よっし〜 男 1971年生 熊本育ち 会社員

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