麻雀
任天堂
1983.8.27発売
©1983 Nintendo
おやじが突っ込みながら遊んでた
中国人です。ウチは1990年くらいにファミコンを購入しました。
おやじは私のためにファミコンを買ったと言いましたが、実際は彼の使用時間は長いでした。とくに『麻雀』というゲームにたくさん時間がかかりました。
私:「パパ、私はファミコンを遊びたい。」
父:「分かった、この圏(=中国語の全荘の呼び方)が終わったら、君に渡す。」
私:「はい〜。」
しかし、小さな私は麻雀ルールを分かりませんでしたので、おやじは大概これから2時間以上、ファミコンの使用が続きました。
たまに、おやじは遊びながら、「なんでロンできない!」「なんで私の点数はこんなに低い!」などと突っ込みを出しました。なぜか分かりませんが、この姿に対して、私の印象は強い。今、私は日本麻雀のルールと中国麻雀のルールの違いがたくさんあることを知っていますが、おやじに関連の知識を教えてあげるチャンスはありません。おやじは20世紀末に亡くなりました。
お父さん、ロンできないの原因はフリテン、点数は低い原因は番数は少ないです。多分。
寄稿:ヤン 男 1985年生 中華人民共和国育ち マーケティング
家族麻雀をやっている友人が無理やりレクチャー
確か小学4年の頃だったか、自分は麻雀なんか興味も覚えるつもりもなかったんですが、その頃すでに家族で卓を囲んでいた友人は、放課後の家族がいない時の面子が欲しかったようで、私を含めた数人にこのゲームで無理やりレクチャーしてくれました。
「ドンジャラみたいなもんだから簡単」と言う友人の言葉とは違い、まったくルールも覚えれず、記憶に残ったのは、牌が配られる時のチープな効果音「デレンデレン、デレンデレン……」と、「リャンシです」の意味が分らず上がれない葛藤と、ポーズを押した時のシュールなコーヒーカップの画像だけでした。
寄稿:ぶんすけ 男 1975年生 青森育ち 建設業
コンピュータ対戦に怒る父
私が小学4年生のクリスマスに、ファミコンと『麻雀』と『マリオブラザーズ』が我が家にやってきました。ところがマリオが不良品だったため、私の人生初のテレビゲームが『麻雀』となったのでした。
私もルールは少し知っていたので、初級で遊んでいましたが、父はいつも上級で遊んでいて、「すごいなあ」と変なところで尊敬していた記憶があります。
そんな父が、ある日いつものように上級でゲームをしていると、まず、コンピュータに「地和」で上がられ、さらに次は、コンピュータに「天和」で上がられて、父は何もする術がなく「なんだ、これは!!!」と怒っていました。
それでも当時は画期的なゲームだったので、親子で一緒に楽しんだ、思い出のゲームソフトです。
寄稿:くまのみん 女 1973年生 神奈川育ち 主婦
「ファミコンじじい」と化したじいちゃん
今は亡きじいちゃんをファミコンにとりつかせてしまったのが、この『麻雀』であった。
初級でひーこら言っていた私を尻目に、昔雀荘で鍛えまくっていたじいちゃんは最初から上級一本やり。「この場でこんな牌がくるなど考えられん! インチキだ!」と言っていた割には、それまでテレビゲームなど一度もやったことがなかったくせに、我が家で延々5〜6時間もやり続け、後に家に訪問すると、しっかりファミコン本体と『麻雀』が買われていた。
以後じいちゃんは「ファミコンじじい」と化し、盤上ゲームのみならず、ドラクエやFFなどのロールプレイングゲームまでやるようになり、いい年こいて『ファミコン通信』を定期購読する始末であった。「あんたのせいだ」ばあちゃんに恨まれたものである。きっと天国でもファミコンをやり続けていることだろう。
寄稿:しょーまりん 男 1971年生 北海道育ち 公務員
ルールわからずポン・チーを繰り返し単騎
グリーンのカセット、シンプルなオープニング。全くルールがわからないのにやりました。理由はただひとつ、「それが、ファミコンソフトだから」。父はルールを知っていたので楽しんでいたようだが。
相手が牌を捨てるたびにポン、チーを繰り返す。そして必ず最後は単騎になる。そして絶対に上がれないのだ。が一度、偶然に上がった。役は白のみ。
時が過ぎ、私も高校生になり麻雀を覚えた。それからファミコンの『麻雀』を改めてやったのだが、「あれっ?」上級にしてもコンピュータ弱すぎ。やっぱ、思考ルーチンの問題なのかな?
寄稿:雪鷹 男 1979年生 宮崎育ち フリーター
父親公認でゲーム時間を延長できた
うちでは規制が厳しく、ファミコンは30分だけと決まっていました。そんななか、このゲームだけはオヤジのせいか、どれだけやっても怒られませんでした。ですのでよくやっていた覚えがあります。
とーぜんルールはまるで分からず、ドンジャラみたいに適当に揃えてあがったと思えば、必ず出てくる「できません」の文字。上級者向けになると、「ノーテンチョンボ」で点数マイナス。なんじゃこりゃ!とよく画面にむかってどなったものです。
マイナスになるということで、このころは中級以上ではまずやることはなかったですね。なんか久々にやりたくなってきますね。
寄稿:クラウド 男 1978年生 岐阜育ち インストラクター
麻雀との出会いはこのソフトから
小学生の頃、とにかくソフトがほしくて、なぜかねだったソフトが『麻雀』。
ところが、自分はもちろん、両親もルールを知らないという始末。近所のおじさんに牌の揃え方だけ教えてもらい、なんとか上がったときの軽快な音楽を聴くと、それだけでうれしくて・・・。意味がわからないなりに結構はまってやってましたね。
今思うと、このときは欲がなかったせいか、結構役満連発してました。四暗刻、大三元、大車輪、四暗刻&緑一色のダブル(このゲームはシングルのみ)! このソフトを買ってなかったら、おそらく麻雀というすばらしいゲームを知らずにいたでしょう。究極の室内遊戯、麻雀に触れることができた、このソフトに感謝ですね。
寄稿:うっちゃん 男 1976年生 群馬育ち 公務員
家族のだんらんに貢献
私が麻雀のルールを覚えたのは、ファミコンの『麻雀』からでした(しかもディスクシステム版)。
最初のうちは手取り足取り、牌のそろえ方を父に教わりながらでしたけど、もともとドンジャラとかも好きでしたので、牌のそろえ方に限ってはすぐ習得出来ました。しかも、初日に「四暗刻」とかやってしまったり、10万点オーバーを取ってしまったりと、もんのすごいビギナーズラックでした。
麻雀でこんなに点を取ったのは、後にも先にもこの時だけです(笑)。
ちなみに、『麻雀』に限っては、私の両親も進んでプレーしたりしていましたので、我が家のファミコンソフトの中では、家族のだんらんに最も貢献しました。(恐るべきは母で、このゲームで「緑一色」とか「九連宝燈」までやってくれました。)
寄稿:いつしまあじし 男 1975年生 東京育ち プログラマー
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