『思い出のファミコン』が本になりました
 

思い出のファミコン_トップへ


SUPER 桃太郎電鉄 SUPER 桃太郎電鉄
ハドソン
1992.3.20発売
©1992 HUDSON SOFT

今でも忘れないおっさんのひとこと

 思い出のゲームをひとつ上げてと言えば間違いなく「スーパー桃鉄」です。そしてこれと同時に忘れえぬ人がいます、それは桃太郎でも高橋名人でもなく、「おっさん」です。

 当時、小学6年生だった僕の日常はファミコン一色でした。ろくに勉強もせずにゲームばっかりやって、学校では勉強もせずに寝てばかりで、窓の外の一面に広がる海をぼうっと見ながら、裏技や隠しキャラの出し方とか、復活の呪文の丸暗記とか、海の先の景色とか、そんなことばかり考えていた。

 そうやって授業が終わるとすぐに学校を飛び出して、一目散に学校の坂を下って、あの店に突っ走っていった。

「おっさん」

 30円30分で子どもにやらせているファミコンを、誰もいないと一人でやっている大きな背中にそう呼びかける。

「おう、来たか」

 そういっておっさんは振り向く。学校が終わったらすぐに坂の下にある中古ゲーム駄菓子屋に駆け込む、それが当時の私の私の日課で、おっさんはその店のオーナーだった。そうしてお小遣いもないのに、ずっとおっさんの隣に座って、将来のこととか、ゲームの裏技とか、今度出るゲームとか、そんなことを言いながらおっさんのするゲームを見ていた。

「一緒にやらないか」

 おっさんにそう言われるのを密かに期待しながら、おっさんのするゲームを横で一日中見ていた。

 夏休みに入ると、一日中おじさんの店に入りびたっていた。お小遣いをもらったらすぐにおっさんの店に駆け込んで桃鉄をする。5人で100円ずつ払って、1番の人は200円、2番の人は150円、3番は100円、4番は50円もらい、5番は0円。通称「賭け桃鉄」。そのとき店にいる小学生と、おっさんも混じって一緒にする。そこで一緒にゲームをする、ただそれだけでみんな友だちだった、名前など知らなくてもよかったんだと。名前も知らない友だちとおっさんとで。日が暮れるまでゲームをやっていた。

 日差しは暑くって、安っぽいラムネとチョコの匂いが充満してて、桃鉄の8ビットのピコピコ音を遊ぶ子どもの歓喜と罵声の声がかき消して、ファミコンがぶっ壊れるほど遊んで、先生や大人たちに不健康だって言われながら、それで一日終わっていた。そんな毎日だった。

 ……そんな夏の日は唐突に終わる。おっさんのゲーム屋が突然閉まった。次の日も次の日も、1ヵ月しても2ヵ月しても、ずっと閉まったままだった。強盗に入られたっていう噂を聞いた。それっきりおっさんと会わなくなって、みんな新しいゲームやマンガに夢中になって、それで終わった。それっきりだった。

 名前も知らない友だちとはそのまま散り散りになって、また新しいゲーム機やマンガの話題で、おっさんのゲーム屋のことは、みんな口にしなくなった、それから対戦ブームが始まって、町の駄菓子屋ゲームは急速に無くなって、僕は中学生になって、ゲームはスーパーファミコンに替わっていった。

 それからも色んなことがあって色んなゲームを遊んで、駄菓子屋も、あの窓の外の海も街も人もゲームも急速に変わっていった。もう暑い夏の日が来ても、あの場所も景色も今はもうない。それは何よりも、僕が変わってしまったからだ。ただ唯一、僕は今でも覚えていることがある。

 おっさんは覚えていないだろうけど、おっさんにこう聞かれたことがある。「お前勉強大丈夫なのか? 中学ちゃんと行くのか?」と。僕は何気におっさんにこう答えました。「いいよ、その時は俺この店で働かせてよ。」そう言ったらおっさんは急に怒り出した。そしてこう言った。「そんなことは絶対許さない! いいか、絶対に俺みたいになるんじゃない!」そう怒られました。今でも覚えています。

 人はひとつでも全力で教えることがあればそれは教師です。だからおっさん、あなたは僕にとって生涯最も大切な教師です。僕を誰よりも見ていてくれました。だからおっさん、またどこかで会えたら一緒に酒でも飲もうよ。いい大人にはなれなかったけど、酒くらい飲める年になったからさ。桃鉄でもやりながら。

寄稿:ずばばば 男 1977年生 神奈川育ち 会社員

あなたも思い出コラムを書いて送ってみませんか?