『思い出のファミコン』が本になりました
 

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F1レース F1レース
任天堂
1984.11.2発売
©1984 Nintendo

亡き兄との思い出、今は息子とともに

 「何周あるの?」それがこのゲームの印象です。兄がはまっていて、それを横目に見ていた私。普通にプレーしていてはいつも、3〜4面でゲームオーバーになっていました。

 そんな兄が、何を思ったのか急に「限界まで引っ張ったら何キロ出るんだろう」と言って、最高速チャレンジをはじめました。そしてプレーすること数十分。「うおっ!」兄が急に叫びました。そうです、TURBOモードを自力で発見したのです。

 その後の兄のプレーは快調で、あっという間に未開の地5面へ。しかし、いつまでたっても5面のGOALの文字がなく、GOばっかりです。そして遂にはゲームオーバー……。その後も何回も挑戦してましたが、5面をクリアすることはありませんでした。

 そして月日は流れ、息子とプレーするもどうしても5面がクリアできませんでした。今は亡き兄との思い出が今でも蘇るゲームです。

寄稿:クロム 男 1979年生 北海道育ち 教諭


父親のカラオケ機で爆音を轟かす

 今でこそアレンジャーなんてことしてますが、このゲーム、プレー中BGMが無く寂しいじゃないですか。父親のカラオケ機(畳1枚分くらいのデカイ奴)で、わざとマイク入力を上げ爆音にして、「F1カーの音や!」とか独り言を言いながらプレーしていたのを思い出します(もちろん父親がいない時)。

 あれがある意味生まれて初めてのアレンジやったなぁ、なんて。ターボの裏技はかかる直前に必ず敵車にぶつかってたなぁ……父ちゃんゴメン

寄稿:speedakasa 男 1973年生 滋賀育ち ミュージシャン ホームページ


本体が届くまでイメージプレー

 私がまだ中学2年の時にファミコンブームがやってきました。当時はどの店に行っても納品1ヵ月待ちはざらで、ソフト3本と抱き合わせで売ってやってもいい、という強気のおもちゃやさんまでありました。

 自転車で何キロも遠いところのおもちゃやさんで本体を予約したのですが、待ちきれずにこのゲームを購入してしまいました。本体よりもやや大きな箱の中には、カートリッジと説明書、そして緩衝剤と今でも鮮明に覚えてます。

 結局、本体が届く日まで(実際は1週間でやってきましたが)、できもしないのにイメージの中でプレーしていました。実際に本体に差し込んでプレーした時の感動は今でも忘れられませんね。

 最近になって海外で見つけてプレーしてみたのですが、結構単純なゲームだったんだなあと思いながらも、当時のことを懐かしく感じてました。

寄稿:車男 男 1970年生 広島育ち 官公庁勤務


「プゥ〜ン」って音

 いやー、このゲームはホント懐かしいですねぇ。ファミコンをやる時はお約束みたいな感じでやっていました。

 それにしても、1人ゲームなのになんであんなに盛り上がったのかなぁって思いますよ。記憶をたどると、あのコンピュータ相手に抜かす時の「プゥ〜ン」って音になぜか大爆笑でしたね。そして、やはりファミコンならではの難易度の高さでしょう。誰かがプレーして新しい面にいった時は、「スゲ〜っ」てみんな言ってましね。「お〜夜じゃん!」とか。

 あと、電源入れてそっこうに鳴り響くオープニングの曲でなぜかテンションがMAXになってましたね。

寄稿:ass 男 1985年生 愛知育ち


「何機あるの?」

 このソフトを機に本体が丸ボタンになった! なにしろAボタン押しっぱなしのゲームは、初だと思います。初めて発売日に完売したソフトかもしれません。

 同級生の武田君(小6)が、電話越しに「買ったよ!」と言って、ゲーム音を聞かせてくれたのが印象的です。何度クラッシュしても続くゲーム音に、「何機あるの?」と電話越しに聞いた記憶があります。そう、それまでは残機制が多かったので、車も3回クラッシュで終わりと勝手に思って電話を聞いてました。

 ファミコン初の3Dビューのカーレース、近所のチラシには少し違う画面(今みればイラストCGですが)で、例えば信号機がチラシは横一列なのに実際は縦になったとか、いろいろレアな話題も豊富なゲームでした。オトナも欲しいと思った一作だったのでは?

寄稿:ゾイン 男 1972年生 神奈川育ち 映画監督


「必殺の戦法」と呼んでいたTURBOモード

 第1ステージの直線で時速350kmを越すと突如400km以上のスピードが出て、しかもコーナーも余裕で曲がれるという有名なTURBOモード。当時はウラ技という言葉自体がなく、僕たちは独自の呼び方で呼んでいました。

 技がすごければ「必殺の技」とか「必殺の戦法」と呼ばれ、小ネタならぬ小ウラ技を「秘密技」と呼び、グレードによって呼び方を区別していました。で、僕らの中でこのTURBOモードは間違いなく初代の「必殺の戦法」でした。

 大学時代、家庭教師のアルバイトをしていたときのこと。生徒の家にスーファミやセガサターンに混じって、古びたファミコンがありました。その生徒の世代では『F1レース』など過去の遺物と化していて、スピード感に乏しく、単純でクソゲー扱いでした。そこでTURBOモードの「必殺の戦法」を見せて驚かせてやろうと思い、授業もせずにファミコンの電源をカチッといれてしまいました。

 「最初のコーナーを280km以上で曲がらな無理やで〜」とか、「ここの直線でタイヤを半分だけ乗せてやな〜」といったレクチャーが始まりました。でも僕自身すっかり腕が衰えていたため、2時間たっても成功しませんでした。

 その日はそれだけやって帰ったのですが、さすがに2時間の時給を頂くのは気が引け、別の日の補習を親に内緒で無償で行うことになりました。生徒には迷惑かけたなぁ、といまだに反省しています。

寄稿:ライデン 男 1974年生 大阪育ち 戦略担当兼作家


車ゲームの苦手意識がここに芽生える

 当時、何度やっても7面をクリアできなかったのですが、夜コタツで寝ていたらいきなり姉に起こされ、「8面まで行った」とのこと。「なぜ、ゲーム素人の姉に負けるのだ!」とその後何度もチャレンジしましたが、結局7面をクリアすることはできませんでした。

 それ以来、車のゲームには苦手意識がつきまといます。実際苦手なんですが。

 同級生が「10面では雪が降る」と言っていましたが本当なのでしょうか? 僕は嘘だと思います。

寄稿:さとー 男 1971年生 千葉育ち SE


ファミコンと初めて出会ったときの衝撃

 このゲームとの出会いが、ボクをインドア派への道に進ませることになる。小1のある日、近所の友達の家に行くと「いい物買ったんだ♪」と言う。「ラジコン? プラモ??」というボクの問いには答えずに、友達は招き入れた。

 子供部屋に入ると、友達の兄のK君がTVに向かっている。手には、どこかで見たようなコントローラを持ち、画面にはレーシングカーが爆音をあげて走っていた!

「これってファミコン?」

 友達は笑顔でうなづいた。あの時の衝撃は、次にスーパーマリオに出会う時にも体験する。そこから、ボクのファミコン漬けの毎日が始まる。

 思えば、あの頃のゲームには痺れるような感動があった。今のゲームはすごいけど、あれほどのインパクトはないから、今の子供達が少し可哀想である。

寄稿:こくおう 男 1977年生 福井育ち 会社員


TURBOモード

 ファミコン本体と同時に買ったのがこのゲームでした。何種類かのサーキットを制限時間内に周回していく・・・と言うゲームだったと思います。今思えばすごく単純なゲームでしたが、はまりました!!

 うろ覚えですが、時速200km/h以上(だったかな?)、スピードを出すと「TURBO」モードに切り替わり、その後のレースが楽に(限界スピードが上がる)なっていたような気がします。(しかしそのTURBOモードになるためにはある程度練習しないといけなかった・・・なかなか200km/h出ない!!ちょっとしたカーブでもスピード落ちるし、コースから外れるとものすごく減速とかしてたので)

寄稿:渡辺 男 1974年生 大分育ち 会社員


アクセルベタ踏み(Aボタン押しっぱなし)で爽快な気分

 我が家にファミコンがお目見えした日、私と弟と1本づつソフトを買ってもらえることになった。弟は『ドンキーコングJr.』で私は『F1レース』。初めて買ってプレイしたゲームということで特に思い入れが深い。

 2MTのシンプルなギアのマシンを操り、のんびりと走る相手のマシンのタイヤをかすめ、ビュンビュンと追い抜いていくスピード感に毎日とことんまで酔いしれたものである。あるスピード以上(確か416km/h)になると、ターボがかかって500km/h近くまで出せるようになったはず。そうなったらもうアクセルベタ踏み・・・じゃなかった、Aボタン押しっぱなしで爽快な気分になったものだ。

 そういえばBボタンはブレーキだったはずだが、使った記憶はほとんどない(^^;;

寄稿:どんぶり 男 1976年生 神奈川育ち 機械設計3年生 ホームページ

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