『思い出のファミコン』が本になりました
 

思い出のファミコン_トップへ


ドラゴンクエストIII そして伝説へ… ドラゴンクエストIII そして伝説へ…
エニックス
1988.2.10発売
©1988 エニックス/アーマープロジェクト/バードスタジオ/チュンソフト

同世代の思い出に泣ける

 ファミリーコンピュータは、技術系で厳しい親が勘違いして買ってくれた物だった。「これからはコンピュータの時代!」とファミコンを勘違いして。

 自分が「ドラクエ3」を手にしたのは、たぶん発売から1年以上経った後だったと思う。自分の住んでいる市で一番大きかったファミコンショップにふと行った時に売っていて、買ってもらった記憶がある。

 テレビで、ビックカメラに何時間も並んだり、カツアゲや騙しとかニュースが出るたび、「バカな人たちだな……」なんて思っていたけど、まさか40過ぎても未だやり直したりするようなゲームになるなんて。今、同世代の「ドラクエ3」の思い出を読んでいるだけでなぜか涙が出てくる……。

「おきのどくですが・・・」が怖かった。

寄稿:なおちょ 男 1980年生 機械営業


発売日の行列で最後のひとつを手に入れた妹との記憶

 当時僕は医学部を目指して浪人中。受験生なのに、仲の良い7歳年下の妹と発売日を楽しみにしていました。

 待ちに待った発売日。入試が控えているというのに、妹と二人で社会現象にもなった行列に並びに行きました。しかし、残念ながら僕らより二組前で売り切れとの館内放送……。それを聞いて妹は泣き出してしまいました。泣いている妹に、「何があるか分からないから、最後まで並んでみよう」と言い、売り切れるまで並んでみることにしました。

 売り切れの放送を聞いて、ひとつ前に並んでいた人は行列から外れました。ここで、店員さんの、「あっ!もうひとつ残っていた」との声。僕らは幸運にも最後のひとつをゲットすることができたのです! 泣き止んで、満面の笑みを浮かべる妹。最後まで並んで良かった!と思ったのを覚えています。

 ……そして、その2年後、妹は交通事故に遭い、この世を去ってしまいました。今、僕は何とか医師になって働いていますが、今でも「ドラクエ」のテーマが流れると、妹のことを思い出して、涙が出てくるのです。

寄稿:プロぺ 男 1969年生 医師


予約待ちで高校入試後に買う予定だったはずが……

 このゲームはたしか自分が中3の高校入試間近の2月に発売予定だった。一応、デパートで予約をしていたが、あまりの人気のため、お店の人からも「あなたの順番だと2ヵ月ほど先になりますがよろしいですか?」とのことだった。「まっ、高校入試が終ってからゆっくりやれば良いか」くらいの気持ちで予約した。そして発売日当日は当然買えるわけもなく、諦めて受験勉強をしていた。

 ところが、発売日より1週間くらいした時のことだった。近くの駄菓子屋に学校帰りに寄って見ると、そこにはなんと中古の「ドラクエ3」が!(その店は店の一角で中古のファミコン・カセットを売っていた)しかし、学校帰りのためお金を持っているわけもなく、速攻で家まで走って帰ってお年玉の残りを握りしめ、そのカセットを手に入れたのであった。その日より、自分の勉強時間は当然減ることになり、深夜遅くまで「ドラクエ3」に熱中したのは言うまでもない……。

 高校入試当日、勉強の公式などすでに頭になく、出てくる単語は「ホイミ・ベホイミ・ベホマ」の三段活用よろしく、ドラクエの呪文のみ(笑)。当然志望校には落ちて、すべり止めの高校に行くことになった。それまで喰らったことの無いほどのベギラマを親から喰らったのは、後にも先にもこのソフトのおかげであった……。

寄稿:gamakatsu 男 1972年生 印刷業


どこも売り切れで泣きじゃくったものの、懸賞の応募で当選する

 言わずと知れた伝説のRPGです。当初は1987年12月発売予定とされてたと思いますが、発売延期。当時おもちゃ屋に行くと、予約受付があり、なにやら発売日には手に入れられないかも?的な雰囲気があったのを覚えています。予約するにもお金がないので、ただただ雑誌の懸賞に応募して夢を見てました。

 そして翌1988年2月10日についに発売。テレビCMもやっていましたね。一方ニュースでは、ほとんどが」ドラクエ3」にまつわる事件のことばかりで、「この原因は大人には分からないだろうな」とほくそ笑んでました。

 発売翌日に学校へ行くと、意外にも購入できた人はおらず、発売後1ヵ月以上して手に入れた人が多かったようです。自分はようやく資金が溜まったのにどこも売り切れで、宮崎の中心市街地でも手に入れられなかったあの日、人目も気にせず泣きじゃくったのを覚えています。

 月日はながれ、5月の梅雨時期、郵便物が届きました。茶色の大きめの封筒に「コロコロコミック特別号」と書かれてたので、シールとかアニメグッズが入ってるのかと思って開封すると、そこには夢にまで見た、赤いパッケージの「ドラクエ3」が入っていました! まさか当たるとは、今までどんなに応募してもスルーされてたのに、よりによって「ドラクエ3」が! はっきり言って、人生のすべての運を使い果たしたとしか思えませんでした。即効でプレーして、アリアハン脱出を試みたのでした。

 学校での会話についていけることや、雑誌掲載のワザを試したりできることが本当に幸せで、週末に友だちを呼んで自慢気にプレーしていた日々が素晴らしい思い出です。だからこそ、未だに飽きずに「ドラクエ」をプレーし続けているのだと確信しております。

寄稿:ウトヤスオ 男 1978年生 宮崎育ち 営業


やり込みデータがあっさり消えた!

 発売日に父親と並んで買いに行きました。まだ小学生だった私には、最高のファミコンカセットでした。

 学校から帰るなりテレビをつけ、レベル上げに勤しんでいた日々。攻略本も買い、なんとか50〜60くらいのレベルになった頃、その日も帰宅してテレビをつけ、カセットをセットしてスイッチオン! すると、突然低い音が鳴り響き、テレビ画面には、「ぼうけんのしょ1のデータはきえました」……たしかテレビ画面にはこう出ていたはず。

 何が起こったのか理解できずに固まってしまい、もう一度テレビ画面を見て、今度は血の気が引きました、一番やり込んでいたデータが、意図も簡単に消えてしまうのですから……。あまりにショックでカセットを投げ壊してしまいました(^^; 今もそのカセットとファミコンは実家に健在ですが、ファミコンの思い出の中では一番のショックな出来事でした。

寄稿:natsuki 女 1978年生 北海道育ち 主婦・三児の母


見ているだけで大満足

 たしか、小学5年生か6年生だったと思います。発売日から少したってから、どうしても「ドラクエ3」が欲しくて、母親に頼んで近所のおもちゃ屋に電話してもらい、予約をして買った記憶があります。

 ただ、当時の私はロールプレイングゲームをクリアできるほど上手にプレーできなくて、兄が私の買った「ドラクエ3」をプレーして、私は兄がプレーするようすを横で見ているだけでプレーしている気持ちになり、見ているだけで大満足していました。

 学校でも話題は「ドラクエ3」でいっぱいでした。私はあたかも自分がプレーしたかのように友だちと「ドラクエ3」の話で盛り上がったのを覚えています。

 兄がクリアしてしばらくたってから、自分一人でもクリアしましたよ。名前は勇者が私の名前、戦士が兄、僧侶が父、魔法使いが母の名前でプレー。その後、何度も最初からプレーして、クリアしました。

 さらにやりこみすぎてレベル99まで上げて、ゾーマを数ターンで倒した記憶があります。

寄稿:JIN 男 1976年生 愛知育ち 営業職


わが家に一台のテレビを独占してプレー

 懐かしい。当時小1だった私の「ドラクエ3」スタートは、たしか発売から半年くらい後だったかな?

 今だにヤンキーのパイオニアを自称する従兄弟(11歳上)が、どうも発売日にカツアゲで手に入れたとかなんとか……。やり込みまくった従兄弟から、「飽きたからやる」ともらったソフトを、当時テレビがひとつしかなかった我が家で、ほかの家族のブーイングをしのいでしのいでやりまくったのを覚えてます。

 クラスのなかでは、着手はまあまあ早い方だったので、エジンベアのパズルに皆が悪戦苦闘してたころはヒーローでしたw もう、あの冒険の書が消える恐怖がないと思うと、技術の進歩に感心しつつも寂しい気がします。

寄稿:ウゴ 男 1982年生 千葉育ち 会社員


20年を経過して残っていた冒険の書

 先日クローゼットの掃除をしていたら、段ボール箱の中に、ツインファミコンと大量のファミコンソフトを発見。ほとんどはオークションで集めたソフトでしたが、このソフトは小学生だった頃に買ってもらったソフトのひとつで、その証拠に裏にファミ通のシールや、自分のイニシャルがペンでくっきり書かれていました。

 ツインファミコンということもあって幸いにも液晶テレビに接続できたので、早速やってみました。何と当時の冒険の書が3つとも残っていて、これには本当に驚きました。調べたらバックアップの電池の寿命は通常約5年程。購入から既に20年は経過しているこのソフト、どうなっているのでしょうか。

 幼い頃このソフトをファミコン本体に差し込み、スイッチオンで白い画面に……。やべ〜と思いながら、もう一回差し込んでスイッチオンした瞬間、両耳をふさいでいたあの頃。本当にあの呪われた時の音楽を聞きたくなかったですね。

 40インチの液晶テレビでやる「ドラクエ3」……。もう30過ぎのおっさんですが、なんだか不思議な気分になりました。同年代の友だちと、無性にファミコン話がしたくなりましたね。

寄稿:30過ぎのおっさん 男 1976年生 宮城育ち


自分が親父に愛されていたと気づかせてくれた

 小6の時に、ある日突然親父に言われた。

「おまえファミコンいるか?」

 貧乏とわかってたから、買ってくれとは言えなかった。少年ジャンプもまともに買ったことはないし、ミニ四駆もよくわからない。いつも友だちが遊ぶゲームの画面をじーっと見てるだけだった。

 とにかくうれしかった。いらないと強がってたから恥ずかしそうに「うん」と言った。あとで知り合いからファミコンをもらってくれた。「ドラクエ3」のカセットが一緒に入ってた。感動した。うれしすぎてちょっと泣きそうだった。

 数ヵ月後、親は離婚することになった。せっかく建てた家も手放すことになってしまった。ずっと親父を恨んでいた。

 でも、自分も30歳になって最近思う。あの時、親父はとにかく息子にしてやれることをしたかったんだなあと。あのファミコンとドラクエのことを思い出すと、今でも素直にうれしい。間違いなく自分が愛された時間だ。

寄稿:しゅう 男 1979年生 佐賀育ち 会社員


期待に胸を膨らませながら実際にはプレーせず

 発売されたのは、小学2年生のときだったでしょうか。家にはファミコンはあったのですが、野球少年であった私は、それほどゲーマーではありませんでした。

 その日は友だちと双子の兄と私との3人でたまたまファミコンで遊んだのでした。その時は友だちがクリアしたら「ドラクエIII」を借りる約束をして帰りました。友だちの家からの帰り道、まだ買ってもいないし借りてもいないのに、双子の兄とどういう組み合わせで冒険を始めるかをわくわくしながら話しながら歩いた帰り道を、今でも鮮明におぼえています。

 その後、プラスチックの下敷きを親に買ってもらったりしながら過ごしていましたが、そのうちに「ドラクエIV」が発売されて、結局「ドラクエIII」は、一度もプレーしていません。兄と歩いて帰ったあの時間の胸のわくわくが、私の「ドラクエIII」の冒険のすべてでした。

寄稿:ドッグ 男 1979年生 埼玉育ち 遊び人


そろって耳を手で塞いだあの音楽

 当時4歳だった私は、自分が買ってもらったソフトであるにもかかわらずそのゲーム性を理解することができず、ロマリアまでしか到達せずに断念してしまった。代わりにこのゲームに熱中していたのが兄だった。

 そんな中、私がどうしても聴きたくなかった音楽がある。「お気の毒ですが冒険の書○は消えてしまいました」というテロップと共に流れてくるあの音楽だ。あの音楽を聴いてしまった日は恐ろしくて夜も眠れなかった。音楽を消音にすればよいものの、幼かった兄と私は、「ドラクエIII」を起動するたびにふたりそろって耳を手で塞いでいた記憶が懐かしい。

PS以降、冒険の書が消えるということはほとんどなくなり、あの呪いの音楽もリアルになりすぎたためか聴いていてほとんど抵抗を感じないものになったが、あのときの記憶はこれからも忘れることはないだろう。

寄稿:T.T 男 1983年生 大分育ち 介護職


4年越しのプレーで最高の感動

 あまりにゲームにはまったため、このソフトの発売当初の小学5年生の頃からファミコンを両親にボッシュートされ、「ドラクエ3」の話題にはまったくついていけませんでした。友だちが「オーブいくつ集めた?」「バラモスはレベルいくつで倒した?」と話すたびにさみしい思いをしたものです。

 そして時を経て中学3年生の頃。スーパーファミコンが発売されて皆がそのブームに湧いているころ、ボッシュートされたファミコンを偶然見つけた私は、受験生であるにも関わらず4年越しの「ドラゴンクエストIII」初プレーがかないました。初めてクリアした時の感動、そしてラストの音楽のすばらしさ。これ以降、その時以上の感動を覚えたゲームは出会っていません。

寄稿:AYAX 女 1977年生 高知育ち


思春期の頃に必要なもの

 発売されたのは中1の2月だったんですが、プレーし始めたのは中3の夏でした。どうして早くからプレーしてなかったんだと悔まれました。

 それにしてもストーリーが凄いですね。ドラクエ1につながっていくという……。今にして思うと、中2〜中3くらいの多感な思春期の頃って、ああいう物語、ストーリーって欲するものだし、必要なのかなあ〜と思います。今の若い子たちで言えばアキバ系とかああいったものになるんでしょうが。

寄稿:sato 男 1974年生 青森育ち 無職


ワープロのアダプターのせいで

 発売日、朝8時に池袋のビックカメラに行きました。すでに行列ができており、昼頃に配られた整理券は1800番くらいでした。実際にソフトを手にしたのは午後3時半頃。しかし、ソフトを買えた喜びのほうが大きかったです。

 そして、事件は突然起きました。姉が「電源が入らない」と騒いでいます。調べてみると、なんとワープロのアダプターをつないでいました……。専用アダプターにつなぎ直し、恐る恐る電源を入れてみると、レバル40以上に上げていたファイルもろとも、すべてのデータが消えていました……。

 その後、正常にセーブできてほっとしましたが、「ぼうけんのつづきをする」のメッセージがなかったときの衝撃は今でも忘れられません。

寄稿:フレディ 男 1970年生 東京育ち 会社員


時間を使ってやりこみ

 記録的やりこみゲーです。初スタートで勇・戦・僧・魔というマニュアルを無視し、勇・武・武・僧(のち賢)でスタート。そして転職で鬼のように武闘家を鍛えました。

 結果、レベル99、HP400超え、MP100超え、力・すばやさMAX、全魔法のスーパー武道家を作り上げました。ルイーダの店には同じ条件のスーパー戦士もスタンバイ。種でドーピングをしようと種集めを始めたらデータが飛びましたが……無念です。いったいどれほどの時間をドラクエ3に使ったのか……。

 うわさでは、オルテガがキングヒドラに勝つ、バラモス生存でギアガの大穴を抜けられる技があるらしいんですが、本当でしょうか? 謎を残したゲームでもあります。

寄稿:みよたん 女 1975年生 東京育ち 主婦


勇者は自分、魔法使いの名前に……

 それは、高校受験直前の冬。「ドラクエI」、「ドラクエII」を経て、楽しみで楽しみで待ち遠しかった「 III 」が発売された。受験前にもかかわらずプレーしているクラスメートをうらやましく思い、受験が終わるまでの我慢だと自分に言い聞かせて。その時は高校入試を人生最大のイベントみたいに感じていた。

 当時、「みほ」という名前の好きな子がいて、その子は頭が良くて、その子の受験する高校は県内で一番偏差値の高い高校で、自分には無理で、切なくて切なくて、それでも、受験の終わった開放感がたまらなくて。勇者を自分の名前、魔法使いの名前は「みほ」にして、プレーした。なつかしくて、切ない思い出。

寄稿:室見川さん 男 1972年生 福岡育ち 会社員


呪いのテーマが本当に怖くて……

 私も父も兄も姉もハマっていたゲーム。とくに父は、このあたりからRPGデビューでして、日曜の朝は父が隣の部屋でファミコンを起動するのが音でわかりました。

 そして、母以外の家族全員がこぞって酷使したせいでしょうか、いつしかバックアップのバッテリーが寿命近くなってきたのです。少しでもカセットの接触が悪くて付け直すと、75%の確率で……

「おきのどくですが あなたのぼうけんのしょは きえてしまいました」

 私は当時小学生でしたが、この呪いのテーマが本当に怖くて、一度聞いてしまってからは起動する際は必ず音を消すくらい怖かったのです。

 しかし父はそんな曲はもろともせず、また朝にひっそり「ドラクエ3」を立ち上げます。そして聞こえてくる呪いの曲。私はもうかすかに聞こえただけで、布団の中で固まっていました。おかげで私は今でもこの曲が怖くて怖くてしかたありません。

 以降、ドラクエシリーズをやる時は、データを呼ぶまで必ず消音にしています。あと、呪われてるかな?という装備品をつける時も。イベントで聞こえてきた時はもう泣くしかありませんでしたが。

寄稿:むうとん 女 フリーター


みんなが教えてくれなかった理由

 私のまわりも、みなさんのまわりでも、あの頃の学校ではドラクエの話に花が咲きまくっていたことでしょう。

 もともとRPGが好きではなかった私は、「こりゃ学校で話題についていけない」と、みんながクリアした後でカセットを借りては遊んでいたわけで……。わからないことはクリアしたみんなに聞けばよいし、まあ、好都合でした。

 がしかし、「ドラクエ3」に関しては、クリアしたみんなの感想が、単なる「うれしい」ではなかったんです。加えて「ラストのストーリー教えてよ」と頼んでも、「自分で確かめたほうがいいよ」と返ってくる。

 モヤモヤした気持ちでいざプレーしてみると、物語の壮大さに完全に心奪われました。終盤、見慣れた地に行き父を目の前で喪い、その不甲斐なさに完全にとさかに来て、敵討ちのようにラストのボスを倒してあの称号をもらった時、今までにない感動を覚え、エンドロールの最後に「to be continued Dragon Quest 1」と表示されたとき、目に涙があふれました。

 みんな、寡黙な勇者ロトの姿に心を打たれ、感動をみんなで分ける術を得た大人へ成長した、だからラストを言わなかった、そんな気がします。本当にいいゲームだと思います。

寄稿:しょうぱん 男 1974年生 兵庫育ち 公務員


「ルイーダの店」が遊び人で溢れかえった

 ジャンプの袋とじを読んで感激した。あのドラクエの続編のゲーム画面が載っている! そこには新要素、転職システムやモンスターについての記事が載っていた。今度はサマルトリアの王子やムーンブルクの王女のように決められたキャラじゃなく、自分でキャラメイクできるのだ!

 当時、『Dungeons & Dragons』などのTRPGや、PC版『Wizardry』のモンスターマニュアルにハマっていたオイラにとって、「自由度の高いRPG=いいゲーム」であった(今でもだけど)。

 発売日の一日前、父親が夜中にオイラを起こし、ソフトをくれた時は嬉しさのあまり死ぬかと思った。以来、毎日ファミコンにかじりつき、ノートを書き、ゲームにのめり込んで行った。

 ダーマの塔で「悟りの書」を手に入れた時、誰を賢者にするかすごく迷っが、後に遊び人は賢者に転職できる、と知ってからは「ルイーダの店」が遊び人で溢れかえったものだ。

 アレフガルドの音楽を聴いた瞬間、「ドラクエ2」の時よりも感激した。しかし、まさか「王者の剣」=「ロトの剣」が、ジパングの刀鍛冶が鍛えたものだったとはなぁ。やっぱりデザイン的には弥生時代の銅剣みたいな感じなんだろうか?

寄稿:NORIMITSU 男 1975年生 東京育ち ダンサー ホームページ


時間の経過とぜんそくを忘れるほど夢中に

 私の小学生の頃の作品です。当時ぜんそくを患っていて、まともに学校も行けていない状態。夜は眠れないほどの病状で、ひたすら時間が経ってくれるのを待っていました。

 しかし「ドラクエIII」をしているときは時間の経過が早かったのです。夢中になってる間は病気のことも忘れていたのだと思います。発売日前には夢にまででてきたのを覚えています。それくらい楽しみだったんですね。

 「ドラクエIII」に関して思い出はいろいろありますが、ゲーム制作者には本当に感謝しています。思い出と感動をありがとう。

寄稿:イモ 男 1975年生 愛媛育ち 会社員


世界を旅したくなった動機

 僕がドラクエ3をやっていたのは、確か小学6年のころ。発売前から、パーティーの職業の組み合わせをどうするか?とか、勇者以外の仲間の名前を誰の名前にするか?とかで、盛りあがって話をしていたことを思い出します。あと、どの職業の男女のイラストにも、何らかの形で“玉”を身に付けていることを発見した時に嬉しかったこととか。

 かなり長く遊んだと思うが、プレーしている時の記憶は曖昧。だけど、印象に残っている場所や場面はたくさんある。たぶん、僕にとってのこのゲームは、遊びの域を超えた“体験”だったのだ。その後の人生にも大きな影響を与えた存在だと思う。

 20代の初めの頃、僕は1年と半年と、2回世界のいろいろな国を旅してきた。なぜ旅をしようと思ったのか? その時は、地球の大きさとか世界の広さとかを知り、いろいろな経験をしたいと考えていた。知らない街を歩き周り、城に行ったり、森や砂漠に行ったり、船で移動したり、出会った仲間と行動を共にしたり、別れたりした。ドラクエ3と同じだ。

 たぶん、動機の根底には、もう一度ドラクエ3のような体験をしたかったという気持ちがあったのかもしれない。最近そんなふうに思った。

寄稿:ケイスケ 男 1975年生 東京育ち 会社役員


感動を教えてくれた本当に素敵なゲーム

 友だちが何気に貸してくれた「ドラクエ3」。ゲームの何もかもが新鮮で、一年くらいほぼ毎日やっていたように思う。本当に面白かった。生まれて初めて「感動」というものがわかった気がするのは、ドラクエがあったからもしれない。

 ある秋の日の午後、私はラストボスのゾーマを倒した。倒したことの喜びの中、私はラストの画面をずっと眺めていた。ゲームの最後の最後、羽のペンが登場し、“the end”と画面上に書いてその羽がふっと消える演出でゲームは幕を閉じた。

 その瞬間、なんとも言えない深い感動におそわれた。「クリアしたんだ……。」しばらくテレビを消せずにいた。その瞬間の家の景色は今でも物凄くよく覚えている。テレビや窓からの景色、光の具合まで^^

 たかがゲームかもしれないけど、一喜一憂、喜び悲しみ、すべてを集約した、本当に素敵なゲームだと思っている。

寄稿:ゆうすけ 男 1977年生 鳥取育ち 会社員


夜中の父のプレー音が気になる

 小学2年生の時、まわりの友だちが皆持っていて自分だけ無かったファミコン。親に「一生のお願い!!」とせがんで買ってもらった最初のソフトがDQ3でした。

 それと、小学生心に「ぼうけんのしょがきえました」は衝撃的でした。夏休みに祖母の家に出かけ、「さあ続きを」と思い電源を入れた瞬間にすべて消去、なんてこともありました。それ以来、友だち同士で、「プレー中はファミコンの周りは静かに歩く」なんて決まりごとを作っていました。

 そんな僕よりももっとハマッていたのは父親の方でした。当時父親は帰りの遅いサラリーマンでしたが、母親と僕が寝たその後にひとりでプレーしていたようでした。母の寝室とテレビのある居間が壁一枚の隣の部屋だったため、あるとき母が、「お父さんのゲームの音が気になった!!」と言っていたのをいまだにおぼえています。

 内容以外に、人と人の思い出を作ってくれた上で大変懐かしいソフトのひとつです。

寄稿:あおそそ 男 1981年生 埼玉育ち 大学院生


ゲームを手にして毎週土曜日泊まりがけ

 当時ファミコンを持っていなかった僕は、「RPG」というジャンルにまったく興味がありませんでした。

 このソフトが発売されて間もなくしたころ、友だちの家で友だちが遊ぶ「ドラクエ3」に出会いました。あまりにも夢中になる友だちの横で、テレビの画面を見ていると、「いずれ自分も絶対遊ぶな♪」と根拠のない衝動にかられました。

 半月後くらいにおばあちゃんの家にファミコンが導入! それから半年後ぐらいに「ドラクエ3」を手にして、毎週土曜日に泊まりがけで遊びに行っていた思い出があります。ゲームはすべてが新鮮に感じ、飽きることなく初心者でものめりこめるストーリーに没頭していました。

 ラーミアに乗って海を渡っているときのBGMがとても好きだった記憶があります。1、2もタイトルだけは知っていたのですが、背景にある壮大なストーリーがクリア時に判明し、その大きさに感動した記憶があります。

 その後、別のハードで1、2をプレーし、「ドラクエ」のとりこになっていました。さらに、小学生ながらキャラクターのイラスト描いて、色つけて部屋に飾っていました(笑)。

寄稿:たかひろ 男 1975年生 北海道育ち 会社員


ぼうけんのしょ消去と兄のやさしさ

 兄のレベル99のぼうけんのしょを誤って消してしまった! 普段はすべてのことに関して無表情・無感動だった兄だけど、ゲームとアニメのことになると本気で怒るのは知っていた。

 兄に言うのは怖かったけれど、いずれはバレる。覚悟して、兄の部屋で、兄が学校から帰るのを待っていた。時間が経つにつれて怖くなってきて、涙が溢れた。

 帰ってきた兄は、自分の部屋で泣いている私を見て驚き、「どうしたの?」と聞いてきた。泣きながら事情を説明して、「私のぼうけんのしょを消していいから。」と言うと、兄は「そんなことで泣いていたの? いいよ、気にしなくて」と頭を撫でてくれた。初めて、兄を優しいと感じた瞬間だった。

 ……あとで親から聞いた話、兄はすでにかなりやりこんでいて、もう「ドラクエ3」をやるつもりはなかったんだって!!

寄稿:小冬 女 1978年生 熊本育ち 派遣


ホイミがマホカンタでベホマに

 「ドラクエ3」をやったのは、小学2年生の時でした。まだ防御システムやら細かいことをほとんど知らなかったときで、公式ガイドブックを買わずに、地道に2年半ぐらいかかってクリアしました。

 いまだ「ドラクエ3」で記憶に残ることが2つあります。ひとつは、回復呪文ホイミをマホカンタをかけたガメゴンロードにかけてはね返って来ると、ベホマ効果で回復したこと。ネクロゴンドの洞窟で何度も失敗したので、ガメゴンロードが出た時はちょっとした回復の泉でした。

 もうひとつは、強敵なモンスターです。最初はカセットが故障したかと疑いました。うごくせきぞう2体とボストロール1体が出てきた時によくありました。どれだけダメージを与えても倒れません。20分ぐらいかかってようやく倒しました。

 「ドラクエ3」、もう一回やってみたいです。プレステなどで出てほしいですね。

寄稿:歩くカーナビ2006 男 1980年生 京都育ち


ゲーム開始直後気づてしまったロト伝説

 このゲームが発売されたのは私が小5の頃でした。クラスの男子のほとんどが買って、しばらくは「ドラクエIII」の情報交換で持ちきりでした。それまであまり親しく話したことのない他のクラスの子から「ラーの鏡」の在り処を教えてもらったのを憶えています。

 あと、ロト伝説の完結編の本作で明かされるある秘密なのですが、私はゲーム開始直後になんとなく気づいてしまいました。ある名前を入力したら「じぶんのなまえをいれてください」と言われたからです。

寄稿:YTA 男 1977年生 神奈川育ち 会社員


光の玉を使わないでゾーマに勝った

 初めてプレーしたドラクエシリーズ。その後 I やIIもプレイし、IV以降の全シリーズもプレーすることになったのは、このIIIにハマリまくったからだといっても過言ではありません。

 現実の世界地図にそっくりなマップ、冒険の書が消えたときのあのショック等、いろんな意味で楽しませてくれたゲームでした。

 あと、これだけは誰に言っても「ウソだろう?」と言われるのですが、実は初めてクリアしたとき、ラスボスであるゾーマに対して、必須アイテムであるはずの光の玉を使わないで勝ったのです。

 それは何も意図したわけではなく、単純に光の玉の存在を知らないままゾーマの元へたどり着いただけなのですが、そのまま倒してしまったことは自慢(?)の思い出です。もちろん相当苦労しましたけど……。

 その後、友人から光の玉の存在を聞いたときには、自分自身で呆れてしまいました(笑)。

寄稿:ぷーたろ 男 1974年生 山口育ち 会社員


リメークできないあの怖さ

 消えないでくれと思いながら緊張して電源を入れると、何の音もなくタイトルが現れる、そしてホッと胸をなでおろす。このゲームを始めるときはいつもこうでした。いつ消えるとも知れない、あの呪いの音楽が鳴るかもしれないと思うと怖くて、半端なホラーより怖いんじゃないかと思いました。

 3つのぼうけんのしょを姉と分けて使っていました。ぼうけんのしょ1が一番消えやすいと思っていた当時の私は、1と3を使い、2を姉が使っていました。

 ある日、ゲームをやろうとソフトを持ったとき、椅子の脚に当たり、ゴイーンとソフトが震えました。これはやばいかなと思ってゲームをつけてみると、案の定呪いの音楽が! このとき、ぼうけんのしょ1のデータはクリアしたもので、3のデータは始めたばかりで、どちらも消えてもいいものでした。なのに消えたのは2で、姉がもう少しでクリアするところでした。「そういや真ん中のあたりがぶつかったもんな」とか訳のわからないことを思いながら、姉に謝りました。

 「ドラクエ3」がリメークされてもあの怖さだけはリメークできないだろうと思います。

寄稿:もよもと 男 1976年生 青森育ち 会社員


ドラクエっ子たちと語り合った愛おしい思い出

 忘れもしない小学校5年生頃、兄とその友人が熱心にプレーしていたゲームが「ドラクエ3」だった。私はそばで面白がって見ていたのですが、「このゲームは凄い!」なんて安易な表現では追いつかない感銘を受けたのです。兄に許可をもらって「ぼうけんのしょ3」に私の冒険の書を作ることに。

 発売から一年後にプレーしたのですが、いまだこれを超えるゲームは私の中には存在しません。学校ではクラスの男子に混ざって情報交換したり、そんな私を変な目で見る女子生徒……(笑)。

 小学校5〜6年生の二年間、ドラクエのおかげで楽しい学校生活を送ることができました。ドラクエプレー中の失敗談や情報交換、笑いながらクラスのドラクエっ子たちと学校で語り合ったあの頃は、すべてが抱き締めたくなるような愛おしい思い出ばかりです。

寄稿:hana 女 1979年生 沖縄育ち 講師


スーパーの袋詰めでもらう

 僕がこのゲームを初めてやったのはたしか小学校3年生の時だったと思います。

 学校から帰ってみるとなぜかファミコンソフト(およそ20本)が、スーパーの袋につめこまれていました。母に聞けば、妹(当時小学1年生)の友だちの母親がくれたそうです。そのたくさんのソフトの中に、なぜか『スーパーマリオブラザーズ3』が2つ入っていたのを覚えています。そしてそのなかにはこの「ドラクエIII」が……。

 もちろん、はまりにはまりました。特に印象深かったのはネクロゴンドの洞窟です。あの難関を、勇者・戦士・僧侶、が死亡した状態で、魔法使いたった一人、しかも残りHPが12(残りHPまで覚えてる自分に驚き)で突破した時のあの感動は忘れられません。ゾーマ戦の時は、光の玉をもった賢者が集中攻撃を受けて死んでしまい、戸惑ったのを覚えています。

 いろんなことがあったけど、「ドラクエIII」は僕にとって永遠に忘れることのできないゲームです。

寄稿:シル 男 1990年生 神奈川育ち 学生


セーブデータを3つとも使用し用心深くプレー

 田舎育ちの自分のまわりの玩具屋は完全予約制で、しかも、当時2年前(メーカーの発表前)から予約ができる、という恐ろしいシステムがあった。ドラクエ3は発売の3ヵ月前に予約した小学校の後輩がいたのだが、なぜか買わなかったので第2回目の発売日(たしか、発売日から1週間後)に購入することができた。

 当時ドラクエは、1、2と買った友だちがいて借りたこともあったが、ほとんど意味が分からずに、ふっかつのじゅもんを書くのが面倒ですぐに返却をした。しかし、3はたしか、ファミリーコンピュータマガジンを見てなぜかものすごく欲しくなり、初めてクリアしたRPGとなった。

 一人っ子だった自分は、セーブデータを3つとも使用し、なぜか用心深くセーブしていたため、データが完全に消去したことはなかったと思う。

 その後、ゲーム通の友だちがFFをやり始めたが、またしても意味が分からず、やっぱりFFも3から始めたので、FF3がRPGでクリアした2作目となった。FFのクリアに対するまわりの評価は凄かったものの、ドラクエは当たり前だった。

寄稿:びっくり 男 1975年生 岐阜育ち 団体職員


女性キャラに好きな子の名前をつける

 私とドラクエIIIの出会いは、小5のクリスマスだった。

 当時、仲間内ではレアアイテムだった「らいじんのけん」や「まほうのビキニ」を探すことがハヤっていた。そんなとき流れた噂が、「攻撃呪文を使ってモンスターを倒すと絶対に宝箱を落とさない。」というもの。もちろん真っ赤なウソであるが、素直な(アホな?)少年であった私はこの噂を鵜呑みにして、ボストロールやキングマーマンと呪文攻撃抜きで戦っていたものだ。

 また、女性キャラに好きな子の名前をつけるという密かな楽しみもあった。私は僧侶に当時好きだった子の名前をつけ、レベルを上げて賢者にして装備も最強にしたが、友人にソフトを貸す時に、恥ずかしくて冒険の書を消してしまったり……。とにかく思い出の多いゲームだ。

 個人的に好きなのが、ラーミアで空を飛ぶこと。空を飛んでいるうちに夜になり、そしてまた朝が来て……。これを見ているだけで楽しかった。って、こんなこと書いていたら、またドラクエIIIをやりたくなってしまった。今度、街で探してみよっかな。

寄稿:RAUL 男 1977年生 静岡育ち SE


アリアハンだけでレベル50

 貧乏だったために、みんながクリアして値段が下がった頃に買ってもらった思い出があります。それまでは友だちの家でずっと眺めていた記憶があります。

 友人の友人が、最初の島「アリアハン」から出る方法が分からずに、レベル50以上になっていたことにかなり驚いて、少しせつなくなったことがありました。

寄稿:F・ナオ 男 1977年生 大阪育ち ホームページ


すばらしい思い出を作ってくれたゲーム

 いまだに人生でプレーしたゲームの中で間違いなくベスト10に入るゲーム。僕個人の意見ですが、今のムービーやグラフィックのきれいなゲームより、昔のファミコンのゲームの方が面白かったような。

 僕のパーティーは勇者、戦士、武闘家、魔法使いのパーティだったので、常に全員の持ち物の限界まで薬草を持たせなければダンジョンをクリアできないような状態でした。

 カンダタのいるシャンパーニュの塔が西にあるよと町の人に聞いて方角を覚えたあの頃。仲間にいた商人を村においていったら町になってどんどん栄えていったことがうれしかったあの頃。終盤のネクロゴンドの洞窟の出口の階段まであと3〜4歩というところで地獄の騎士の焼けつく息で全員マヒして全滅して放心状態になったあの頃。

 闇の世界で勇者の武器・防具をひとつずつ集めていくのが楽しかったあの頃(ネーミングも好きでした、王者の剣とか)。実はIIIの次がIで、Iで語られていた伝説の勇者がIIIのパーティだったことに、すごく感動したあの頃。

 今、これほどの思いをさせてくれるゲームって、きっとないと思う。それほどすばらしいゲームでした。

寄稿:vanity.blue-tear0124 男 1978年生 兵庫育ち 会社員


発売当日に質屋で買えた

 あれは、忘れもしないドラクエ3の発売日。近所のひとつ上の兄ちゃんと一緒に、渋谷でドラクエ3を買うために学校を休んで朝から向かった。ちなみに自分は小1、兄ちゃんは小2。今考えたらめちゃくちゃだが、当時はどこでも見た光景だと思う。

 で、その店に到着すると、整理券を配っていた。もらった番号は81と82。うわさでは100本あると聞いていたので、もらった!と確信していたのだが……。実際に販売が始まると、僕と兄ちゃんの前でストップ。80本だったらしく、途方にくれてとぼとぼ家路に着くことに……。

 しかし、帰り道、ふたりの家の間くらいに位置する質屋のショーウィンドウに、ふたりとも目が釘付けになった。なんと、さっき発売されたばかりのドラクエ3が置いてある!? 今考えたら、盗んできたか、カツアゲしてきたのだろうけど(初日に売るわけないし)、僕らは買えればそれでいい。速攻で買って、ダッシュで家に帰ったのだが、途中、一度カセットを落とした。

 すると、どうも様子がおかしい。カセットを振るとガチャガチャと音がする。後にバックアップ電池が取れたということがわかるのだが、おかげで僕のドラクエ3はセーブができない(しても電源を入れなおすと消えている)状態だったので、電源を入れっぱなしでクリアしました。ああ、懐かしいなぁ。無茶してたなぁ。

寄稿:とも 男 1982年生 東京育ち フリーライター


謎の買い占め

 実は私、ドラクエII以降のすべてのタイトルを発売日に買っていますが(VIは発売日以前だった気が……)、一度も並んで買ったことがなくて、全部親のコネで送られてきてました。ごめんなさい。

 そんな罪深い私ですが、どうしても理解できなかった思い出があります。当時クラスでは、Kくんが「ドラクエIII」を10本以上買い占めたという噂が流れていました。まるで昔の少年マンガにでてくる悪い子みたいな所業ですが、一説によると「めぐまれない子たちにKくんのお父さん(社長)がタダで配るために買い占めたのだ」という、これまた昔の少年マンガの金持ちのお父さんがやるような情報が、本人のあずかり知らぬ所で錯綜しまくっていました。

 本人は買い占めたのは認めましたが、なぜ父親がそうしたのかはついに言いませんでした。おそらく知らなかったのでしょう。でも、クラスの「めぐまれない子」たちは、そのせいで自分たちが買えなかったんだとばかりに非難して、大問題に発展してました。

 事の顛末を傍観していた私は、「たかがゲーム、されどゲーム」の境地に達しつつ、バハラタに「くろこしょう」を取りに行ってました。

寄稿:濱 竜也 男 1977年生 栃木育ち 製薬関係


インフルエンザをおして買いに走ってくれた母

 母と僕がインフルエンザでダウンした、ドラクエ3発売日。2は買って貰えずに、友だちの家でふっかつのじゅもんをマイノートに控えていたのを母は知っていました。

 その日、母の方が熱があったのに、赤い自転車にまたがり、どこかへ行ってしまいました。自慢げに母が帰ってきて袋を見てビックリ。近所の玩具屋さんの袋でした。なかにはドラクエ3とキングコング2の2本のソフトが入っていました。当時は抱き合わせで人気ソフトは売られていたので、母が2つとも買わされたのでしょう。嬉しくて今でも覚えています。

 即行でカセットの裏にマジックで名前を書かれてたなぁ。そんな僕も今は結婚し、母は今でも元気です。

寄稿:太田 成 男 1975年生 神奈川育ち アパレルブランド ディレクター


ずっと大事に保管している

 今までプレーしたゲームで一番やり込んだのはこのゲーム。本当に極めるほどプレーしました。どこに何の敵が出るか、どこで何が手に入るか、敵の持っているアイテムは何か、ほかにもたくさんのことを今でも覚えています。唯一分からなかったのは、ゾーマの手前で戦う「ドラゴンゾンビ」の持っている宝箱です(笑)。

 本当に何回やっても飽きないというか、いろいろな楽しみ方ができたと思います。最近はどちらかと言えばFF派になっている自分。年齢的なものもあるかと思いますが、そんなFFでも一度クリアしたら、「もう1回!」という気持ちにはあまりなれないですし、しばらくしてから、久々にやりたいって思うくらいですかねぇ。その前に売ってしまうこともありますし……。

 今でもこのソフトと箱・取説は大事に保管してあります。歳をとっても、ずっと持っていたいと思う、そんなゲームがこのドラクエIIIですね。

寄稿:クリボー 男 1976年生 宮城育ち スポーツインストラクター


自分(ドラクエ)専用テレビに起こった奇跡

 中学1年の冬。DQ2発売からわずか1年後に発売されたこのゲームは、発売日の様子が新聞にのり、社会現象といわれていた時代でした。私のクラスでも、早く帰って、予約していたおもちゃ屋へ買いに行きたいがため、帰りのホームルームの時間を逃げ出した者が二人いました。一人は私ですが……。

 購入した私は早速、秘密兵器を取り出しました。それは、このゲームを人よりたくさんやり込むためには、絶対欠かせないアイテム……。その名は「自室用テレビ」! ゲーム購入に備えて、1ヵ月前から、近隣の町内の大型ゴミ収集日を調査し、なるべく綺麗そうなテレビを探し出し、拾って持って帰っていました。別にテレビ放送が見れなくても良いのです、とにかく、端子をつなげてゲームの画像さえ映れば満足なのです。とにかく、その秘密兵器のおかげで、ドラクエはやりたい放題でした。

 そんなある日の晩、いつものようにドラクエしていて、ふと、チャンネルを変えてみようという衝動に駆られました。寝転がったまま、足の指でテレビのタッチチャンネルを押してみる……。すると、久米宏の『ニュースステーション』が映ってる! テレビのアンテナには接続してないはずなのに……。おおっ、しばし感動のあまり、『ニュースステーション』を見てしまいました。「金曜チェック」のコーナー(懐かしい!)まで全部。

 次の日の晩、同じようにテレビのチャンネルを変えてみたのですが、もう何も映ることはありませんでした。一夜だけの奇跡として、あの日の「金曜チェック」を忘れることはないでしょう。

寄稿:ピチパラキング 男 1974年生 広島育ち 会社員


差しっぱなし

 DQ3でまず思い出されるのは、勇者がレベル4でホイミを覚えた頃に、セーブをしないまま電源を切ったことです。今から思うとなんとももったいない話ですが、当時小3程度であった私のことを思うと無理からぬことであったと思います。

 このゲームはよくやりました。このゲームの完成度にはただただ驚嘆するばかりです。冒険の書が消えるのを恐れて、ソフトをずっと差しっぱなしにしていた日々が懐かしく思い出されます。

寄稿:もなしゅ 男 1980年生 岐阜育ち 学生


裏技にチャレンジして買い換えに

 発売当時、僕は小学2年生くらいだったと思います。平日の発売であったため、母親に頼んで買ってきてもらった思い出があります。

 僕は兄貴の横で見てる方が好きなので、戦士に名前を付けてもらったことを覚えています。アリアハンからロマリアに行く時、勇者一人だけが生き残り、やっとのことで着いたときの感動。それ以降のストーリーも、幼き兄弟の目にはただただ感動でした。

 ある日、究極の裏技を発見した兄は早速チャレンジしてました。たしか、ツインファミコンで電源を入れたままソフトを引っこ抜くとか……。すると全ての能力がMAXに!(ただし戦闘中に必ずと言っていいほどバグリます)実は最強になったかと思えば、使用不可能なソフトになってました。あのあと新しくまた買い換えて、勇者・賢者・賢者・賢者とかいうパーティーなんか作ったりして……。FFもそうですが、あの頃のドラクエには、「古き良き時代」がありました。

寄稿:samurai 男 1979年生 神奈川育ち 営業


強制終了したまま返却

 初めて購入したのは「IV」だった。それまでは友だちから借りてプレーしていたドラクエシリーズ。実に簡単に消えてくれる冒険の書は、途中で電源を切っただけでも危険だと聞いていた。

 最も熱中し、好きなシリーズとなった「III」だが、ロマリアで頓挫しそうになった。王様職を交代した時、「カジノで遊んでる王様に話す」、という元に戻る方法が分からずに、そのまま電源を切って返してしまった。冒険の書の1番には友だちが育て上げたレベル65のデータがあったにもかかわらず……。

寄稿:AK-D 男 1979年生 神奈川育ち 自営業


女魔法使いにはみんな自分の好きな子の名前をつけていた

 世の中はドラクエIIIを買うのに行列を作っていたが、僕は偶然にも友だちの母経由で入手できた。親友の母親がおもちゃ屋でバイトしており、おもちゃ屋の息子、親友、そして僕、とうまいこと3本手配できたからだ。

 一作目からドラクエ信者だった僕はもちろんハマった。家ではドラクエ、外では鉄パイプを持って道路脇の雪山に向かって「かいしんのいちげき〜」と言ってドラクエごっこしていたものだった。

 さて、当時クラスではこのドラクエIIIにおいて奇妙な現象が起こっていた。それは、“好きな子魔法使い現象”だ。恐らくゲームを始めた人は、例外なく戦士(武闘家)、勇者、僧侶、魔法使いでパーティーを組んでいたことと思う。クラスではその魔法使いが女性で、しかも自分の好きな子の名前を入れるという現象が起きていたのである。この現象は果たして僕がいた地域だけだったのだろうか?

 ちなみに僕の家に友だちが来た時は、慌ててぼくの魔法使い「さやか」をひっこめていたものだ・・・。クラスには他にも数人「さやか」という名の女魔法使いが存在していたと伝えられる・・・。

寄稿:わたしゅ 男 1976年生 北海道育ち 教師


「やり込みプレー」が定着したきっかけのゲーム

 最高のゲームバランス、ドラクエIIIの魅力を語るとそこに行き着く。

 RPGで「やり込みプレー」が定着したのはドラクエの賜物である。それはゲームの自由度が高いからで、理由はキャラクターのステータス。主人公・敵キャラ・ボスに至るまで緻密に計算され、「攻撃力」「守備力」の算出方法が、シンプルでベストなのだ。また、獲得する「経験値」や「ゴールド」も相当検討したに違いない。

 このゲームバランスのおかげで、ゲームの中盤、一番飽きやすいトコロの自由度が圧倒的に高いのだ。それに加え、装備品やアイテムをうまく使うことで低レベルクリアにも挑戦できたり、また強制的な4人パーティーではなくパーティーの編成も自由なので、勇者一人クリアにも挑めるのである。さすがにこのプレーは苦労した。

 ドラクエシリーズがココまで支持されているのは、ステータスバランスに尽きる。その中でも「III」は、自由度の高さ、またそのストーリーが素晴らしく感動できたのである。

寄稿:ぽむぽむ。 男 1978年生 岐阜育ち 会社員


「ぼうけんのしょ」が消えた・・・

 とにかく我が人生の中で最高の一作であり、これを超えることができるのは無いであろう。(やはりドラクエを超えるのは、ドラクエ!?)

 しかしこのゲームは当時みんなでやりまくりました。(そりゃ、発売日には超陀の列!買ってもカツアゲ!?というような社会現象になりますし!)このゲームはストーリー、音楽なども素晴らしかったが、特に最高だったのが、「ふっかつのじゅもん」というパスワードがなくなり、自動セーブしてくれる「ぼうけんのしょ」に変わったこと。これでどれだけみんな助かったであろうか。

 しかしこの「ぼうけんのしょ」、今のゲームとはひと味もふた味も違います。それは、勝手に消えてしまうのです!! どんなにがんばっても消えてしまうのです。この苦しみを何度味わったことか。特に思い出されるのが、裏面でゾーマを倒すべく「にじのしずく」を使う前に、セーブしていた「ぼうけんのしょ」が消えた時です。当時の私は多分立ち上がれないほどのショックを受けていたに違いない・・・。

 これでこのゲームをある意味クリアしたと思ったが、経緯は覚えていないがなぜか友だちのゲームでゾーマを倒した!(ちなみに僕がコントローラーを持っていた。なぜだ!)そして感動のエンディング。いまだになぜだか解らない。

寄稿:ゆたゆた 男 1979年生 オーストラリア育ち SE


攻略ノートの表紙にメタリックマーカーでロトの紋章

 I、IIに続き、IIIも発売日にガッチリ入手。確か高校受験の前日だったけど。最初からの4人パーティにとまどったが、レベルも謎解きも少しずつだが確実に進んで行く。学校の友だちと情報交換しあうのも楽しみのひとつだった。授業中にノートのスミに武器の絵を描いてみたり、呪文を列記してみたり。

 そんな旅路も、バラモスを倒し終了・・・と思いきや、大ボスのはずなのに曲が普通の戦闘曲。まだ先があると薄々予感はあったけど。ギアガの大穴に落ちた先がアレフガルドだと知った時のあの興奮。真のラスボスであるゾーマを倒し、分かたれる上と下の世界・・・闇のとばりが消え甦る光・・・。勇者に与えられるロトの称号。

 恥ずかしながらここで初めて、IIIの主人公があの勇者ロトその人だったんだ、と認識。涙が止まりませんでした。まさしく、そして伝説へ・・・。

 攻略をメモりつづけていたノートの表紙にメタリックマーカーでロトの紋章を描いて嬉しがってしまったピュアな日々は永遠です。

寄稿:どぶろく 男 1972年生 三重育ち 公務員


隣の県まで電車で買いに行って抽選販売

 発売日に並んだ初めてのソフト。しかし並んでも買えず、隣の県まで電車で行って抽選販売(もちろんハズレましたが)。やっと見つけた店でも『銀河の三人』と抱き合わせの始末(泣)。

 次の日、今は亡き「ニチイ」に朝から並んでやっと買えました。それからがんばってレベルを上げ、ダーマ神殿まで行き、やっと転職!と喜びもつかの間、セーブデーターが消えるハメに・・・。

 原因はカセットと本体の間に挟まってた髪の毛。長い髪の毛だったので、掛け持ちで遊んでいた姉の髪の毛と決め付け、姉弟喧嘩したのを覚えています。そんな姉も今や内科医。今でもファミコンは現役で、こんな歳になっても時々ひっぱりだしては姉と遊んでいます。

寄稿:おねぷ 男 1974年生 大阪育ち 医療関係


ネクロゴンドの洞窟越えに達成感

 初めて購入したドラクエがIII。買ってからは毎日のようにやりました。そのせいでよく親に怒られ、また隠されました。

 異常に長い道のりに加えて、トロルのつうこんのいちげき、フロストギズモのヒャダルコ、ライオンヘッドのベギラマなどなど、IIIの中でもかなりの難易度をほこネクロゴンドの洞窟は、今でも忘れられません。越えた時には、IIのロンダルキアの洞窟を越えた時並みにうれしかった。

寄稿:雪鷹 男 1979年生 宮崎育ち フリーター


何度もクリアしてるゲームなのに面白い

 この前引っ越しの片づけをしてたら、ドラクエ3のカセットが出てきた・・・。昔の記憶が蘇ってくる。

 当時高校生だった自分は、ドラクエ5の発売日に朝から並んでいた。シリーズの1〜4はやってたわけで、今回も期待に胸を寄せていた。綺麗になったグラフィック、16和音であのタイトルテーマを奏でる。数日後、5はクリアをした。

 ふとその直後、横に置いてあったドラクエ3に目がいく・・・なにげに初めからスタート。何度もクリアしてるゲームなのに面白い。16×16ドットの絵、4和音のサウンドでも、ゲームは中身が面白ければ関係ないんだ。 ドラクエ3のバランス、これを越えるRPGは未だありません。

寄稿:ソニック 男 1975年生 広島育ち フリー


1,000円で譲ってもらったはずが

 その日が待ち遠しかった。友だちが「ドラクエIII」を1,000円で売ってくれるというのだ。学校の連絡帳に「この日に『ドラクエIII』が来る」と大きく書き、その日までの日数カウントを毎日つける。

 ついに、その日がきた。友だちから受け取った「ドラクエIII」。感動だった。しかし、ケースの上部が割れていた。理由を聞くと、「内蔵の電池を交換したんだ」と言う。なんて親切なやつなんだ。その日はそのままファミコンの前に直行。そして唖然とした。眼前のテレビに映ったのは、なんと『バルーンファイト』だったのだ。ケースは「ドラクエIII」なのに。中身が違う!?その日はろくに寝られず、翌日、その友だちを詰問した。

 友だちは「やばい」という顔をして走って逃げた。捕まえて理由を聞くと、「妹がまだクリアしてないから・・・」と言う。なんてやつだ。

 ようやく手に入れた「ドラクエIII」のセーブデータに彼の妹の名前でLV13のデータがあった時は、「ぼく、ちょっとかわいそうな事したかな」と思った。

寄稿:masa 男 1975年生 広島育ち 教師 ホームページ


想像できる楽しみ

 当時小学生だった私も、例外ではなくこのゲームにハマッた。昔から感じていたことだが、「ドラクエ3」の美しさは「正方形ベース」にあった。

 ドラクエ(特に3まで)ではマップ、キャラなど、画面を構成するビジュアルの最小単位は正方形が基本になっている。山脈なども正方形の「山」の集合体として描かれる。当然、マップはカクカクしており、人によっては好き嫌いが分かれるだろうが、二次元の上方向からの視点で立体感を表現するためには妥当な手法だったと言えよう。それがドラクエ(特に3)の場合、完成されたバランスを持っていた。

 特筆すべきはネクロゴンドの火山である。画面上ではただのドットの荒いキャラたちなのだが、魅力的なイラスト、音楽によって見事に脳内で補完され、勇者たちの冒険を想像させる。火山も見た目にはただの黒い四角マスだが、ちゃんと頭の中では山頂の火口でガイアの剣を投げ入れる勇者たちが見えているのだ。

 ドラクエシリーズも最近になると、大部分がグラフィックで描けてしまうため、リアルにはなっているが想像する楽しみは減っている。個人的にはあの均整のとれた正方形バランスが崩れてしまったことが残念でならない。そういう意味では、ドラクエ3の持っていたバランスは、ゲーム内におけるビジュアル表現の一つの完成型であったと思う。

寄稿:Peco 男 1979年生 兵庫育ち デザイナー


IIIから始めてI、IIと進めた

 小学生当時、ドラクエIIIが流行っていたんだけど、俺はIからやらないと気が済まないタチだった。しかし近所のお兄さんが、「むしろIIIからやってみろ」と強くすすめたので、しぶしぶIIIからドラクエを始めたんだけれど、それが今となっては最高のスタートだった!

 IIIをクリアし、その子孫が活躍するIとII。 ドラクエでの時間の流れ、ストーリーを考えるとこれがベターだったんですよね! それに、IIのラストボスは最高レベルでも強いし・・・っていうか強すぎ! 今プレーすれば以前よりは簡単にクリアできるだろうが、あの小学生当時は何度IIのボスで泣かされたことか。

 今ではもうほとんど会うことの無いお兄さんだが、IIIから始めるのをすすめてくれたことに結構感謝ですね!

寄稿:松井師匠 男 1978年生 石川育ち 自営業


ジャンプはどのボタンだ?

 おそらく僕が5歳ぐらいの時であろう・・・。ファミコンは家にはなく、祖父の家でやっていた。その祖父の家で、生まれて初めてやったRPGがこのゲーム。衝撃的だった。ゲームはマリオしかやったことがなかった僕は、まずはじめに、「ジャンプはどのボタンだ?」と、一生懸命探した。あるはずがない。「攻撃はB(ボタン)かな・・・」とも思っていた。

 というか、むしろ町の人間にBボタンで攻撃できると思っていたくらいだ。始めてみると驚いた。武器は武器屋で買い、武器の種類によっても攻撃力が違うではないか! しかも、好きな職業の仲間でパーティーを組んで行動するではないか!! もうただただエニックスに感謝だった。そんな13年たった今でも、僕はドラクエシリーズの虜だ。万歳!万歳!

寄稿:佐藤 男 1985年生 神奈川育ち プロサッカー選手


消えませんように・・・

 真冬の朝に映し出される行列の数。かつあげや抱き合わせをはじめ、発売日に特番まで組まれてしまったゲームソフト。

 内容もシステムも、前作をはるかに凌ぐ完成度の高さだったのだが、ゲームの面白さを後押ししているのは、記録方式が「ふっかつのじゅもん」から「ぼうけんのしょ」というセーブシステムに変更されたことも大きな要因だろう。

 この「ぼうけんのしょ」というセーブシステム。前作をプレーした人ならばそのありがたみが身に染みて分かると思うのだが、うまい話は早々転がっているものではない。非常に消えやすいのだ。電源をオンにしてゲームが始まらなければ、「消えませんように」と片手で拝みながらカセットを差し直すぐらい消えやすい。

 しかも消える時は情け容赦ない。身を粉にして上げたレベル74の「ぼうけんのしょ」が、あの忌々しい呪いの音楽をバックに3つ同時に消えた時は、それこそ自分の靴に「しあわせのくつ」とマジックで書いて、冒険の旅に出てしまいたいぐらいショックだった。

 しかし、そのリスクを背負いながらも何度もプレーしてしまう魅力がこのゲームにはあった。あの感動は決して忘れることはできない。

寄稿:ながQ 男 1978年生 千葉育ち ホームページ


抱き合わせ

 ここまでは毎年発売されていたドラクエシリーズ。徹夜待ちとかカツアゲとか抱き合わせとか、いよいよ社会問題にもなった話題作だった。

 私も発売日当日に、下校後制服姿のまま、京成線に乗って上野アメ横まで繰り出した。しかし、販売店を探し回ったものの、あまりの人気に結局入手できなかった。1万円近くでクソゲー2〜3本との抱き合わせ販売ならあったのだが、当然予算オーバー。

 とはいえ、どうしても欲しかったゲーム。あきらめきれずに、結局兄と結託して、家の近所の量販店で抱き合わせで買ってきてもらった。そのパートナーは、抱き合わせにしてはかなりレベルの高い『沙羅曼蛇』だったのが幸い。

 すっかりのめりこんで、少しでも先に進めたく、よく両親が寝静まった深夜に、布団をかぶりながらプレーしたものだ。闇の国だったアレフガルドなんかは雰囲気たっぷりだった。

寄稿:深田 洋介 男 1975年生 東京育ち 編集者 ホームページ

あなたも思い出コラムを書いて送ってみませんか?