『思い出のファミコン』が本になりました
 

思い出のファミコン_トップへ


プロ野球 ファミリースタジアム'87年度版 プロ野球 ファミリースタジアム'87年度版
ナムコ
1987.12.22発売
©1987 NAMCO

誰かの予約を奪ってまで欲しかった

 野球少年だった私は、初代「ファミスタ」を発売日に入手、本作が発売されるまでの一年間、友人たちと数えきれないほどの熱戦を繰り広げ、1987年の12月を迎えた。

 当時、「ファミ通」の愛読者だったので、発売日は当然把握していたはずなのに、予約をしていなかった……(理由の詳細は思い出せない)。しかし、どうしても発売日に入手することを諦めきれなかったので、ファミコンソフトを販売しているかどうかも分からない店も含め、電話帳片手に、電話を掛けまくった。その電話で分かったことは、「想像以上の人気だ!」という事実。

 それでも諦められない私は、発売日当日に従兄弟を使い、お店に「予約していた○○ですが……えっ!そんなはずないでしょ!」的な内容の電話を掛け、その後直ぐに、そのお店に商品受取に行くという暴挙に出てしまった……お店の方、予約されてた方、この場を借りてゴメンなさい。

 電話を掛けてくれた従兄弟、つねに兄貴のタイタンズに苦渋を舐めさせられていたある日、満塁の場面でバースを敬遠し、勝利を手中にしたことがあった。試合終了直後、リアルにボッコボコにされたが……。

 ちなみに、この「'87年度版」では、前作よりも投高打低の色合いが濃く、彼がボッコボコにされる姿も、あれ以来、見ていないなぁ……。

寄稿:遊ばざるもの、働くべからず! 男 1973年生 山口育ち 自営業


指先が痛くて洋服のボタンが止められなくなるまで

 「ファミスタ87」、学生時代もっとも遊んだゲーム。ファミコンを購入した際にソフト購入し、そのまま友だちと朝までぶっとおしで遊びまくった。指先が痛くて洋服のボタンが止められなくなるまでやった。

 初心者だった自分は、経験のある友だちに翻弄され、メジャーリーガーズを使って負けるという屈辱的な敗北を喫し、絶対に強くなり、リベンジを果たすことを誓った。

 特訓がはじまった。ボンバーズを主体に、まず徹底的に守備を鍛え鉄壁の守備を手に入れた。「早い送球」もマスターし、盗塁はすべりこませない送球で100%阻止できるようになった。

 投球は徹底した外角攻めを中心にして主軸のみ三振を狙い、雑魚バッターはすべて打たせて捕った。「斜めのストレート」を多用して、スタミナ温存することもマスターした。

 攻撃は俊足の1番を流し打ちでショートゴロ内野安打で出塁させ盗塁。2番に送りバントさせ1アウト3塁の状況を作って得点する。インコースに食い込む変化球を打つために2人プレーでバッティング練習までした。

 打てないピッチャーには球数を投げさせ、カットまでしてへばらせる。これらを徹底することで勝率は飛躍的に跳ね上がり、9割以上勝つことができるようになった。56イニングス無失点記録を作ったりもした。

 ファミスタ大会で騒ぎすぎ、大家さんにしかられもした。自分にとって、あのころのファミスタを越える野球ゲームはもうないだろう。

寄稿:ちゃたきち 男 1969年生 群馬育ち バンカー


不良中学生に負けず入手

 ファミスタシリーズを買ったのはこの'87年度版が初めてでした。1987年からプロ野球に興味を抱き、ファミスタを収集し始めたのもこの頃から。住んでいる街は田舎で、「ファミスタ'87」は予約して買うほど。

 予約注文した玩具店では、予約する際はノートに氏名と電話番号を記入するのですが、これが同じクラスの不良中学生に見つかりました(その不良中学生も予約)。悪いことに予約した人数分に「ファミスタ'87」が入荷せず、さらにその不良学生は最後の方の予約でした。

 以後、その不良中学生から「予約順番を変われ」と強迫される始末。入荷日まで毎日言われまくりでした。しかし私は「『ファミスタ'87』がやりたい」と心に誓っており、一歩も譲らず入手に至りました。当時いじめられていた私は、何か自信も満ち溢れる気持ちもあらわれました。

 あれから22年、今現在も大切に「ファミスタ'87」を保管して、時折懐かしみながらプレーしています。今やリサイクルショップでは中古で安価で販売されていますが、当時から入手した「ファミスタ'87」は、私にとって人生が詰まった一作だと思っています。

寄稿:レビ輔(復帰) 男 1973年生 北海道育ち 事務職


ボロ負けの果てに

 僕がはじめてファミコンに触れたのは5歳か6歳ころ。近所に住んでるお兄ちゃんの家で『けっきょく南極大冒険』あたりをやらせてもらったりしてた。

 そして自分でもファミコンが欲しくなり、親にねだってファミコン本体と同時に買ってもらったのが、「ファミリースタジアム'87年度版」でした。父を相手に(使ったチームは忘れたけど)「18-1」というスコアでボロ負けしたのをよ〜く覚えてます(笑)。あれは悔しかった。

 あれ以来、「ファミスタ漬け」になり、友だちと対戦して負けた覚えはないですね。(89年度版のエディット機能はハマったなぁ)

寄稿:キンロウ 男 1982年生 山梨育ち 派遣社員


1試合50円賭けてプレー

 いや〜、このゲームは本当面白かったなぁ〜。中学時代はこのシリーズで随分盛り上がったものだ。1試合50円賭けてプレーし、序盤でキレてリセットを押すと100円没収、ピッチャーは最低2回は続投すること、などのルールで毎日のようにやっていた。みんなの実力はほぼ互角で緊迫した試合が続き、1球の失投で勝負が決まることが多くなった。

 そうなると言葉でだます(口ジャミ?)やつが有利になってくる。A君の得意技は速球派のピッチャーを使用し、「ヒュンッ!!」などと言いながらスローボールまたはバットの届かないコースに投げ、三振の山を築き挙げるもの。A君の技にやられ小遣いがなくなり、親に300円貰って勝負したあの頃が懐かしい。

寄稿:ガバス 男 1972年生 北海道育ち 会社員


延長37回ウラ2アウト、あきやまがサヨナラアーチ

 当時中学生だった私は、週末になると誰かしら友人の家で「ファミスタ」というのが定番だった(私立だったので平日は不可)。

 で、ファミスタの人間同士の対戦というものは、上達すればするほど点を取りにくくなるわけで、初代ファミスタでも延長戦が当たり前になりつつあった。

 そこで登場した'87年度版である。打席の一番前まで行けない、飛距離は出ない・・・etc.、ゲームバランスを調整してリリースされたこのゲーム、とにかく点が取れない。延長15回くらいはザラであった。

 一番の思い出は、ある友人N君とやったG−L戦(私がLチーム)である。先発(くわたとひかしお)が互いにパーフェクトピッチングで延長37回ウラ、2アウトから「あきやま」がレフトポール際へサヨナラアーチを放ったのである。へろへろの先発投手をおたがい意地になりながら引っ張り続けての死闘、ゲーム後は本当に疲れたっていう感じでした。

 いまやテレビゲームにあんな熱くなることもないんだろうなぁ・・・。

寄稿:mori 男 1972年生 東京育ち 鉄道会社の土木屋

あなたも思い出コラムを書いて送ってみませんか?