『思い出のファミコン』が本になりました
 

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スーパーマリオブラザーズ スーパーマリオブラザーズ
任天堂
1985.9.13発売
©1985 Nintendo

今も大切に残す、名前を書いた世界にひとつだけのカセット

 今ではファミコンクラシックミニにも内蔵さている『スーパーマリオブラザーズ』。

 私は『スーパーマリオブラザーズ』が発売された1985年9月13日はリアルで過ごした年代です。当時、今は亡き祖父が住んでいた地域へ遊びに行っていた頃、イトーヨーカドー帯広店でデモ画面を見かけました。すでに『マリオブラザーズ』を知っていた私が、『スーパーマリオブラザーズ』を初めて画面で目にしたのは1-2面で、カメが凄い大きいなあという印象でした。

 でも、当時は車ゲームが好きだったこともあり、『スーパーマリオブラザーズ』ではなく『ジッピーレース』を買いました。これが人生の汚点というか……『ジッピーレース』はすぐに飽きてしまい、後日クラスメートの家で『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしてみると、面白くて面白くて!『ジッピーレース』を購入してしまったことが後悔になりました。アイレム様すみません。でも今、『ジッピーレース』は中古品ですが、コレクションとして大事に保管しています!

 以降はクラスメイトの家でプレイしますが、「スーパーマリオ」が欲しくてたまらなくなり、ネット時代ではないので電話帳で玩具店を調べて在庫確認の電話をするも、時すでに遅し……完売ばかりで入荷時期未定な日々。

 その翌年の3月に、たまたま親とホームセンターに行くと、サービスカウンター目の前のショーケースに3台の黄色い箱が並んでいて、それが『スーパーマリオブラザーズ』でした。親にねだってすぐ購入できました。

 買ってからは、学校へ行く前に帰宅後と、テレビが1台しかないので、親がテレビを見る場合はゲームができないという制限の上でプレイした思い出があります。あの軽快なジャンプをはじめ、地上、空、地下、海、城という綺麗な画面は今も忘れられません。当時購入した『スーパーマリオブラザーズ』は、カセットラベル裏に名前がマジックペンで書かれていますが、今でも大切に残しており、アナログテレビでプレイしては世界にひとつだけの自分のゲームだと思うほどです。

寄稿:ナイト 男 1973年生 北海道育ち サービス業


世代を超えた“スーパーな”マリオ

 ゲームをあまりやらない両親と妹でさえもプレーしていた、唯一家族全員で遊んだ記憶のあるソフトです。小さい従兄弟が1回だけ泊まりに来たことがあって、マリオの動きに合わせて自分の体も飛んだり跳ねたりしてる姿に、みんな涙が出るほどの大笑い。

 それから15年ほどして母は亡くなり、葬儀の時に久々にその従兄弟がウチに来ましたが、やっぱり話題はその時のスーパーマリオのコントローラーさばきのことでした。元々、全員が自分勝手で、つねにバラバラな我が家ですが、母親が他界してますますその傾向が強くなっているだけに、あの時みんなでひとつのゲームに夢中になったということに苦笑いしてしまいます。

 そして今では自分の娘がDSで「スーパーマリオ」をやっています。もう発売されて30年近くも経つのに、3世代に渡って……でももしかしたら、4世代・5世代にも渡って人々を楽しませることになるのかな? とにかくゲームという枠を超えた、まさに“スーパーな”マリオなんだと思います。

寄稿:オオカミ13 男 1970年生 富山育ち 木こり


マリオに国民栄誉賞をあげたい

 スーマリほど、エポックメイキングとして燦然と歴史に輝くゲームは、他にそうはないのではないだろうか。

 私は当時中1で、グングンとどこまでもスクロールしていく画面、飛んだり加速したりのダイナミックなスポーツカー的操作感覚(それまでのゲームって、もっともっさりチマチマした動きだった)に感動したものだった。

 クラス中の仲間が、あっという間にこのゲームのとりこになったのも当然だった。毎日友だちと、テレビにかじりついてゲームをして遊んだ。僕は、遊びに革命が起こった、と思った。

 そして、この革命的ゲームをやりながら、僕らの未来はもっともっと楽しい素晴らしいものがたくさん世に出て、きっとバラ色の世の中に違いない、と思ったものだ。

 マリオは僕ら世代に感動と興奮と明るい未来の希望を与えてくれた。マリオには、国民栄誉賞をあげたいと思う。

寄稿:ティフォシ 男 1972年生 東京育ち 会社員


他界した従兄弟との思い出

 このゲームは一番思い出深い作品のひとつ。

 私が従兄弟(1980年生)と一緒にゲームをしていたとき、自分はとっくにクリアをしていて、従兄弟にアドバイスをしてやっとクリアした時、突然従兄弟が号泣したこと。また、友人から当時流行っていた『キン肉マン』の登場キャラクターのウォーズマンが敵キャラで出ていると話を聞いて、その正体が「メット」であって大笑いしたことなどです。

 ゲームをクリアして感動した従兄弟も、昨年交通事故で他界しました。葬式の際、マリオのゲーム本を棺の中にいれました。今でもマリオを見ると従兄弟を思い出します。

寄稿:ちゅん 男 1978年生 神奈川育ち 会社経営


RF接続に苦労

 小学校の入学祝にと、本体と一緒に買ってもらったのがこのソフトでした。それまでは近所の先輩の家でしかできなかったスーパーマリオが自宅で好きなだけできると、わくわくしていました。

 しかし、そんな私の前に、RF接続という大きな壁が立ち塞がったのです。今のゲーム機のようにAV接続なんか無かった時代です。小1の私と機械オンチの父親では太刀打ちできるわけもなく、ついには親戚のおじさんまで登場して、1時間以上かかって接続したのを覚えています。でも、それだけ苦労しただけに、テレビの画面にスーパーマリオのタイトル画面が表示されたときには涙が出そうになりました。

 それから私の宝物になったファミコンは、汚されても蹴飛ばされても、壊れることなく私に夢を与え続けてくれました。今思えば宝物のわりにずいぶんひどい扱いをしたものだと思います。

 時間に追われる今となってはファミコンをすることはありませんが、私の部屋の片隅には、その役目を終えたファミコンが今でも当時の姿を留めています。

寄稿:ひぃろ〜 男 1979年生 京都育ち 販売員


テレビを凝視しながら視力のみが悪化の一途

 こっそり父がツテを使って買ってきたファミコン。初めてのソフトはスーマリでした。当時、小学1年生か2年生くらいで、初めてのファミコン。1-1でクリボーに衝突したり、隠し1upキノコを捕獲したり……。

 当時、「余ってるから」という理由でファミコン用に与えられた14インチのチャンネル式(!)テレビを凝視しながら、自分も一緒にマリオと冒険している気分に浸ったものです。でも、4-1までしか自力でいけないへタレだったのですが……。

 上達はまったくせず、視力のみが悪化の一途をたどって、とうとう自宅にファミコン禁止令が出たりもしたのですが、今も色褪せずに「スーパーマリオ」の思い出は心の中にあります。

寄稿:はな 女 1978年生 東京育ち 主婦


あのころを思い出しながら、今はWiiでマリオ

 父と一緒に遊んだあのころ。風邪を引いて学校を休んだ時、こっそりやったゲームソフトもこれでした。

 ワープゾーンも知り尽くし、無限1UPもできるし、もう何も知ることはないとわかっていても、おもしろくやってました。ファミコンが壊れてしまい、ガッカリして20年……。Wiiでできることを知った私は、発売日に並びました。発売日に並んだのは、それこそ『スーパーマリオブラザーズ』以来でした。このワクワク感もあの日以来……。

 ちゃんとポイントも貯め、クラシックコントローラーも買い、今日もあのころを思い出しながら、Wiiでマリオをやってます。

寄稿:koshiMAX 男 1970年生 熊本育ち 会社員


家族団欒の幸せを教えてくれた

 誕生日数日前の発売日に、両親に無理を言ってプレゼントの前借りをして手に入れました。そこからプレーしまっくて、裏技とかを攻略してる時に、ゲームに口うるさかった母親がマリオにハマってしまいました。そこからは、母親と2人プレーとかもありました。

 ヘタクソなプレーはいまだに覚えています。ヘタクソで、見ててイライラすることもあれば、家族全員テレビの前に集まり、楽しい時間を過ごすこともありました。あの時バラバラになりかけてた家族を元に戻してくれた、大変お世話になったソフトでもあります。

 あれから二十数年……。あのBGMや効果音を聞くと、今はもう故人となってしまった母親を思い出します。単純なゲームではなく、幸せを運んでくれる素晴らしいソフトでした。

 自分の子供にも、このゲームを教えると思います。そしてあの時のような家族団欒の幸せ、心の温かさの教育をしていこうと思います。任天堂様、素晴らしいソフトをありがとうございました。

寄稿:アップル 男 1977年生 大阪育ち 会社員


父から伝え聞いたワープゾーン

 このゲームをやったのは、我が家でファミコン禁止令が出るより少し前のことでした。

 ある日、外から帰ってきた父が、どこから聞いてきたのか、ワープゾーンを教えてくれました。1−2のワープゾーンは、画面の上を越えなければならないのですが、それがにわかに信じられず、「(楽しんで)やってるのにー。」と文句を言っていたのですが、試してワープできたとき、「これはすごい」と喜び、父は得意満面でした。

 後にこのゲームを含めたゲームのやりすぎが原因で、親からファミコンを隠されることになりますが、「この頃はみんなで楽しんだんだよな。」と思い出すゲームでもあります。

寄稿:もよもと 男 1976年生 青森育ち 会社員


母の叫び

 当時小学生でした。まだ幼い弟と2人で外で遊んでいたら、アパートの窓から母が興奮気味に叫ぶのです。

「ふたりとも、おいでおいでー!! 早く!!」

 何かあったのだろうか……と、あわてて弟を連れて家に戻りました。すると。

「ホラ!! お母さんクリアしたわよ!! お母さんが1番乗りよ!!」

 と、テレビにマリオとピーチ姫が対面している所を見せられたのでした。メチャクチャ悔しかったです。

 今現在、ボクがファミコンミニでスーパーマリオを遊んでいると、いつもこの話題になります。そんな母ももういい年。大事にしていきたいですね。悔しいのは忘れられませんが……。

寄稿:友杉 影子 女 1978年生 神奈川育ち フリーター ホームページ


宣伝を見て電撃が走った

 発売日に手に入れたソフトで、クラス中で話題になったのを覚えています! 昔の『ファミコン通信』を買っていて、新作情報をチェックしていて、なおかつ宣伝を見て電撃が走り、発売日に学校が終わった瞬間におもちゃ屋に行きました。入手できたあの時の感動は忘れません。

 貯金をこのためにしていたので、発売日に入手できたのを友だちに自慢しました! 本当に楽しいソフトで、ただいまニンテンドーDSを買い、ファミコンミニ版で楽しんでいます。

寄稿:にいやん 男 1972年生 兵庫育ち


いつも父のゲーム姿を見ていた

 私がまだ3歳のとき、もう40にもなる父がファミコンを抱えて仕事から帰って来た。「なんだろう?」と思うと、突然テレビをいじりだし、このゲームを起動させていた。

 3歳でこのゲームは難しすぎた。最初、ジャンプをしてノコノコを倒すことを知らず、開始10秒もせずに死んだ。そのころ父も夢中でやっていて、いつも父のゲーム姿を見ていた。

 だんだん大きくなり、このゲームの楽しさもだいぶ分かってきた頃、「ワープゾーン」を知るようになった。知人でこのワープゾーンを使い、5分で全クリしてしまうのを見て、私もチャレンジの毎日! ワープゾーンの行き方は知っているのに、敵に当たってばっかりでクリアできないまま……。

 私のファミコンはまだ壊れていないので、いまだにチャレンジしています!

寄稿:ジャクソン 男 1985年生 北海道育ち


3人の子供たちに受け継がれるマリオ

 我が家にファミコンとマリオが来たのは、多分中3の時だと思う。部活を引退し、小学生の弟より早く帰ってきた私は、共働きの両親もいない自宅で、暇をもてあましていた。

 弟に与えられたのであろうファミコンを前に、「テレビに繋ぐのは面倒くさい……。でも、弟が帰ってきたら私が触れるのはずっと後……。」そんな計算が終了したところで、重いテレビを動かしていた。

 当時、配線はテレビの後ろで埃まみれになりつつ、受験勉強に向ければいいような集中力で取説を読み、そして開かれた世界は、私の勉強時間と視力を無くしてくれた。その後も、「姉ちゃんが繋がなければできなかった」と弟に恩を着せ、“どこから始めてもクリアできるすごい姉ちゃん”とちびっ子たちの賞賛を浴びた。

 現在は3人の子供に恵まれ、小学生の息子たちにテレビゲーム時間を制限している。目が悪くなる!とゲームボーイは与えてない。けど、ゲームボーイミクロの存在を知ってしまった今、マリオパーティではないマリオに会いたくて仕方ない。私の血を継いでる子たちが、勉強嫌いの近視になるのは遺伝だから仕方ないよね?

寄稿:ママはホントはゲーム好き 女 1970年生 栃木育ち 主婦


「欲しい!!」と心から思ったソフト

 あれは俺が小学生4、5年生の頃です。いつも通り、皆で放課後に遊ぶ約束をしていましたが、俺だけ宿題を忘れたために、居残り勉強を余儀なくされてしまいました。そして急いで居残り勉強を終え、集会場所であるNの家行った時、皆が興じていたのが『スーパーマリオブラザーズ』だったのです。

 ちょうどその時は、ちびマリオが優雅に海の中を泳いでいるシーン。水の浮力を利用して、フグやイカを巧みに避けているその様は、まさに「衝撃的」の一言でした。当時からファミコンにハマってはいましたが、後にも先にも、このソフトほど「欲しい!!」と心から思ったソフトはありません。

 ただ! 悲しいかな、ウチは非常に貧乏だったのです。もちろんファミコンソフトなど容易に買ってもらえる環境ではありませんでした。両親にねだり倒し、それから数ヵ月後の誕生日にスーパーマリオを手にした時の感動は、今でも忘れることができません。

寄稿:ken 男 1973年生 東京育ち 会社員 ホームページ


姉のいぬ間にピコピコン♪

 スーパーマリオは、4歳上の姉の友人が持っていました。小学校低学年だった私はヘタだからという理由でプレーさせてもらえず、姉とその友人が遊んでいるのを後ろから見ているだけでした。

 その日は私の家で彼女たちが遊んでいました。相変わらず仲間に入れてもらえず、でも心の中では、私もコントローラーに触りたくてしょうがありませんでした。夕方になって姉が思いついたように、「もっと遊んでいたいから、○○ちゃん(ソフトの持ち主)、うちにお泊まりしなよ!」。

 持ち主の友人も“お泊まり”という言葉にワクワクし、「じゃあ、うちに言ってお母さんに断ってくる!」と。そこで2人はポーズボタンを押し、マリオが空中停止した状態で出かけて行ってしまいました。「絶対に触るなよ!」と私に言い残して。

 初めは姉が怖いので我慢していましたが、ちょっとだけなら……と思い、ポーズを解除しました。そしてすぐに、ポーズボタン。ボタンを押してピコピコン♪っていうのが楽しくて、「ちょっとだけなら」を数回繰り返したその時!……あれは4-1面でしたねぇ、画面の端からジュゲムが現れて、パイポを降らせたのは。そして、マリオ撃沈。私は姉にしこたま叱られると思って青ざめました。

 ……やがて、姉とその友人が帰宅。黙っていても叱られるのであれば素直に謝っておこうと、半泣きで姉に打ち明けました。すると姉は素晴らしい笑顔で、「いいよいいよ、お前もやりたかったんだもんね♪」と!! 友人のお泊まりが承諾されてご機嫌なのでした。

 結局その日その後も私がプレーさせてもらえることはありませんでしたが、怖ろしかった姉のことが一瞬だけ好きになった出来事でした。でも、今でもポーズのピコピコン♪を聞くと、あの時の恐怖を思い出します。

寄稿:Katie 女 1978年生 千葉育ち 団地妻 ホームページ


本体は壊れてもカセットは思い出に保存

 生まれて初めてプレーしたゲームが、この『スーパーマリオブラザーズ』でした。当時3歳だった僕が見た光景は、母がファミコンで『スーパーマリオブラザーズ』を熱心にプレーしているところでした。

 その後、母に代わってもらい、よく理解できてはいないものの一生懸命にプレーしました。1-1をクリアすることもままならなかったのですが、楽しさは十分に伝わってきました。

 それから小学生頃までお世話になったこのゲーム、まわりはスーファミが主流だったときも、家ではファミコンを妹と楽しくプレーさせていただきました。

 今も我が家に残るスーパーマリオブラザーズのカセット。ファミコン本体は壊れてしまい捨てたのですが、カセットは思い出にと……。ゲームの楽しさを有り難う!そして幼児期での印象深い思い出を有り難う!

寄稿:SADAMASAKI 男 1988年生 滋賀育ち ラッパー


アメリカで見せつけてやった

 当時中学生1年生だった私は、リトルリーグの県選抜でアメリカに行きました。ホームステイ先でさっそくファミコンを発見し(アメリカではニンテンドーと呼ばれていた)、スーパーマリオをやって見せました。

 アメリカでは発売直後だったらしく、無限アップやワープなど日本で培ったありとあらゆる裏技を見せつけてやりました。その時の僕を見る彼らの目は驚愕と尊敬で満ちあふれていました。最後の野球の試合が終わったとき、僕の前にはユニホーム交換希望者の長蛇の列ができていました。

寄稿:scottie 男 1975年生 栃木育ち サラリーマン


甥には「神」と崇められ

 私のファミコンメモリーの大半を占める作品です。1980年代、当時の私は学校から帰って夕飯を食べたら、風呂上がりにとにかく連日連夜、ピーチ姫救出の冒険に出ていました。何人マリオが殉職しても、何回ピーチがさらわれても、居間のテレビを独占し続け、怒った父親にファミコンをぶん投げられてもその熱意は冷めることはありませんでした。

 そしてGBAのファミコンミニでの復活。甥っ子のGBAから流れる「タランタッタラッタ♪」音に心踊らされ、半ば強奪して久しぶりにプレー。ワープゾーンや無限増殖を見て驚愕の甥。今では「神」として崇められております(笑)。

寄稿:じいや 男 1977年生 埼玉育ち システムエンジニア


指が覚えてる

 昨年、新婚旅行に向かう機内でスーパーマリオが遊べたので、久しぶりに熱中しました。なんというか、何年ぶりにやろうが、指が勝手に動くんですね。勝手に無限増殖していたし。隠し1UPきのこの位置では、ちゃんとジャンプしてるし。

最近こんな動画を見つけてビックリしました。

「スーパーマリオ世界最速(?)クリア」 (※ Windows Media ファイル)
http://www.economicbrains.com/wmv-files/smb1.wmv

寄稿:清水 孝則 男 1973年生 愛知育ち 編集者


拾ったソフトのせいでみんなでビンタをくらう

 あれは、私が小学校5年の時でした。公園で同じクラスの友人数人と草野球に励んでいたところ、友人のひとりが公園のすべり台の上で、発売されたばかりのスーパーマリオのカセットを発見したのです。当然野球は中止、友人の家でスーパーマリオ大会!! そのカセットはクラス中の男子の間で回され、一躍、人気者でした。

 しかし、それを知ったクラスの女子が先生に、「男子が拾ったカセットで遊んでいます。」と、チクったため、学級会議が行われることに。没収されたカセットを手に、先生は「これで遊んだ奴は前に出ろ!」と、一喝。私含め20人ばかりの男子が前に出てビンタをくらいました。

 議決の結果、学級委員がこのカセットを警察へ持っていく事に。その学級委員とは、実はワタクシ。次の休みの日、私がそのカセットを持って向かった先は、警察ではなく、ファミコンショップでした・・・。確か、3,000円で売れましたが、そのお金で何を買ったかはもう記憶の彼方です。

寄稿:ピチパラキング 男 1974年生 広島育ち 会社員


郵便局員を小一時間拘束

 我が家にファミコンが来たのは1986年の始めであった。私が小学校1 年生の頃である。丁度スーパーマリオのブレークにより、第二次ファミコンブームと言われていた頃だったと思う。もちろん本体と一緒に買ったソフトもスーパーマリオであり、それからしばらくはこのソフトだけを狂ったようにプレーしまくった。

 ある日、マリオをプレーしながら独りで留守番をしていた時、郵便局員が手紙を配達に来た。私の家は田舎だったので、郵便局員が勝手口まで郵便物を届けてくれるのはもはや常識だった。するとその郵便局員は、「お留守番か〜偉いな〜。おっスーパーマリオか、俺裏面の出し方知ってるぞ。」と私に言った。

 それが彼にとって命取りになった。どうしても裏面を見たかった私は、その郵便局員を家に引っ張り上げ、「裏面を見せてくれ!」と嘆願(半泣き)、仕事中の局員を小一時間も家に拘束したのである。おかげで裏面の出し方をマスターし、次の日から同級生に自慢しまくった。

 あの時無理矢理付き合わせた郵便局員のお兄さん、ホントにご迷惑をかけました。この場を借りて改めて謝罪申し上げます。そしてありがとうございました。
寄稿:Peco 男 1979年生 兵庫育ち デザイナー


灰色クッパが空を飛ぶ禁断の技

 ファミコン史上、ファミコンという名前を世に知らしめることとなる伝説のソフトを、20周年を迎えた今だからこそ、僕は禁断の「マリオ→テニス→マリオ」について試してみた。

 マリオのカセットを入れて、しばらく遊んで引っこ抜く。テニスを入れて、コントローラーのAを押しながらテニスを引っこ抜く、そのままAを押しながらマリオを入れてリセット、そしていつものようにスタート。

 僕の目に映った伝説の『スーパーマリオブラザーズ』は、クッパが灰色で空を飛んでいた(しかも攻撃してくる)。永遠に繰り返す無限ループのボーナスステージ。クリボーが壁に刺さって動けなかったり、無意味な場所で飛ぶパタパタ。ジャンプ台に乗っでジャンプをすると、マリオが落ちてこないし、タイムが止まる。

 しまいには、ピーチ姫がクッパ城の壁の上にいた。マリオでも助けられないし、むしろクッパ城なのにクッパ不在。驚きを隠せず僕は時代を逆行し、狂ったように面を探した。恐るべき遊び、禁断のマリオ。

寄稿:ナカムラアツシ 男 1978年生 東京育ち ジャズマン ホームページ


達成感、爽快感はいまだ衰えない

 「奇跡を体験した。」一言で言えばこのソフトはそうなる。初めてCMを見た時、こんなにスピード感があって、陸、海、空、地底といろんなステージを冒険できるゲームがあるのか、と痺れたのをよく覚えている。

 プレーしてその思いは強くなるばかりだった。その後のアクションゲームの基本になったと言っても過言ではないだろう。18年も前のゲームにして、達成感、爽快感においても今のゲームに引けはとらない。初めて手にした“当たり”ゲームだった。

 今も会社帰りに職場近くのゲーセンに寄り、ゲーセン版で衰えぬ腕を試している。10代の未熟なプレーヤーを尻目に、ノーワープでハイスコアを叩き出して全ステージクリアするのはなんとも言えない。その時だけは8歳の自分に戻るのだ。

寄稿:こくおう 男 1977年生 福井育ち 会社員


テレビのあっち側に世界があったんだ・・・

 やはりファミコンといえばこのソフト。当時、いわゆる面クリ型のゲームがほぼすべてだったなかで、横スクロールで進んでいくさまをショッピングセンターのおもちゃ売り場で初めて見た時、正直失禁ものの衝撃を受けた。

  「テレビのあっち側に世界があったんだ・・・。」

 その後、このソフトが自分の一生にどれほど影響を与えたかは、はかり知れない。就職活動は全部ゲームソフトメーカー。でも夢は破れて、今はひょんなことから販売する側の人間に。

 今は、ゲーム業界もヒットする内容もあのころとはかけ離れてしまったけれど、自分の店にあの時の自分みたいな子供がいればいいな、とたまに思う。

寄稿:ナツボン 男 1975年生 鹿児島育ち ゲーム&ホビーショップ店員 ホームページ


驚きと感動は時代と世代を超えて

 この年になっても(29才)大学の寮にちょくちょく足を運ぶ私。当然現役生なんて、僕より10才も若い! でも、そうした年齢の隔たりを埋めてくれるのがファミコン。中でもこのスーパーマリオは重要でした。

 やはり世代が変わればファミコンにふれた時代も異なるもの。後輩たちにとってファミコンとはむしろ未知の領域!? 僕が1UPキノコや入れる土管の場所を覚えているだけで「スゲ〜!!」の連続。なかでもイチバン感激されたのが究極のステージ! 隠された面に進めるという裏ワザです。(※電源を切らずにあるカセットと差替えてする方法とは違います。)

 この裏ステージ、1-2の地下面から進めるのですが、現役生から卒業生まで集まったその場で知っているのは僕ひとりでした。そのため、突然海の面にワープした瞬間、みんなから驚きの声が!!

 スーパーマリオをやり尽くしたという年の近い後輩たちの方が驚きも大きかったですね。僕が10年以上前に経験した驚きと感動を、時代と世代を超えてみんなが味わいました。それ以来、新入生にもそのワザを引き継いでいくという伝統が生まれました。ファミコンがきっかけとなり、後輩たちとコミュニケーションが図れたことに今でも感謝しています。

寄稿:ライデン 男 1974年生 大阪育ち 企画戦略部署兼任営業担当


私の人生を方向づけたゲーム

 忘れられないゲームの基礎みたいなソフト。

 マリオの発売当時は、親もゲームは1日1時間!と厳しかったけど、どうしてどうして1日1時間なんて絶対無理!とばかりに、こっそり親に隠れてプレーしていたら、おもいっきりバレて、こてんぱんに叱られました。今となってはいい思い出です(笑)。

 でも、マリオでファミコンにハマッてしまい、少女時代をすっかりゲームに捧げてしまった私。おかげでその後、ゲーム系の仕事がしたくてゲーセンのおねぃちゃんにまでなってしまいました(笑)。さらに、ゲーセンの店長と結婚したし(トオイメ)。

 このゲームと出会ってしまったのが運の尽き・・・だったのかなぁ?

寄稿:ゲェセン王子かわ 女 宮城育ち 元業務用ゲームオペレーター、今は主婦 ホームページ


77歳の義母がクリアタイムに飽くなき挑戦

 義母は今年77歳になりますが、大のファミコンファンです。ゲームの中でマリオが飛び越えたりする画面では、体も弾ませて飛び越えさせていました。その様子をそばで見ているのがとても面白かったです。

 クリアするまで苦労をしていましたが、クリアするとカウント魔の義母は、「今日は何分でクリアした」と記録をとるようになりました。

 数年たったとき、「いい加減、新しいソフトに挑戦したら?」と『ドクターマリオ』をプレゼントしたところ、今日に至るまで、毎日クリア時間の挑戦を続けています。が、数年前から下降していると嘆いています。

 昨年故障したとき、任天堂にとても親切に修理していただいた、と喜んでいました。今日の新聞で製造中止を知り、今度故障したら、と心配しています。

寄稿:寺川 睦子 女 1953年生 京都育ち 自営業


このゲームやりたさに、ネットオークションでツインファミコンとセットで落札

 今のゲーム機(PS2やX-box・・・etc.)が存在するのは、このゲームがこの世に誕生したからこそだと思う。

 当時は小学生で、ファミコンが家になかったので、ファミコンを持っている友達の家によく行ってプレーしたのを鮮明に記憶している。もう手に入れることは無理と思っていたが、ネットオークションでファミコンソフトがかなり取引されているのを知って、このゲームやりたさにツインファミコンとこのゲームソフトを落札してしまった・・・。

 当時は、一番最初の面1−1スタートのクリボーでよく死んでいたなぁ(笑)、なんて思い出に耽りながらプレーした。簡単に最終面8−4をクリアーしてしまったが、今でも1UPキノコの場所などを覚えているくらい、このゲームにはまっていたことを改めて感じた。

 今後、どんなゲーム機やソフトが誕生しようとも、ファミコンとスーパーマリオというペアを忘れることはないだろう・・・。

寄稿:クリボー 男 1976年生 宮城育ち スポーツインストラクター


その後に遊ぶゲームの源流となったソフト

 これは、ファミコンで初めて・・・いや、生まれて初めて遊んだ思い出に残るソフトです。ファミコンを箱から出して、ACアダプタやRFスイッチを接続して2chで(なぜか1chでは映らず)やってました。

 結局ラストまではいかずじまいでしたが、マリオの面白さ(難しさ)がわかり、スーファミやゲームボーイ、64などでもお世話になることになった重要なソフトです。ファミコンも20周年と言うことで原点に戻ってみてはいかが?

寄稿:小緑 祥太 男 1984年生 福岡育ち 高校生


近所の公園のような親しみで大きく楽しませてくれた世界

 ファミコンにおける、ぼくの一番の思い出、といえばこのゲームしか浮かばない。

 定番中の定番であったが、家であまり長時間ファミコンをさせてもらえなかったぼくにとって、唯一、最終ゴールに向かってハマりまくったゲームである。

 躍動感のあるBGMにのって、次々新しい世界へ。クリアする目的もさることながら、この世界にいることを心から楽しんでいた記憶がある。そう、まるでディズニーランドのように・・・。時には遠回りしてでも、まだ行ったことのない場面を開拓した。

 あのゲームの終焉と共に、ぼくのファミコン人生も次第に収束に向かっていった気がする。幼いころ遊んだ近所の公園。ぼくにとって、スーパーマリオの世界はそんな懐かしい場所なのである。

寄稿:沼田 雄一 男 1973年生 東京育ち 会社員

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