『思い出のファミコン』が本になりました
 

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スーパーマリオブラザーズ3 スーパーマリオブラザーズ3
任天堂
1988.10.23発売
©1988 Nintendo

その裏技の真相やいかに?

 発売して数日のこと、最終面まで到達した私はひとつの裏技を発見しました。

 海に浮かぶ船をひたすら横断する面で、さっさとマリオが海に飛びこみ、あとは画面の見えないところでボタン連打して泳いでおけば、いっさい敵と相対することなく、最後の土管まで行けてしまう、というワザでした。

 興奮しました。
 生まれて初めて、「ファミマガ」の裏技ページにハガキを送りました。

 翌月、ドキドキしながらファミマガを買いにいきました。
まだ発売間もないし、結構役に立つし、ひょっとしたら採用してもらえるかも、と期待のような自信のようなものがありました。

 載っていました。
 横綱技(賞金1万円)に次ぐ、大関技(5千円)として、でかでかと写真入りで紹介されていました。

 しかし、次の瞬間、私は凍りつきました。
 投稿者の名前が自分ではない、熊本県から投稿された誰ぞの裏技になっていました。しかも、その投稿者は名字のなかに「城」が入っている、とてもめずらしい名前でした。

 私の名字には、「城」が入っています。日常生活でも、なかなか「城」が入った名前の人には出会いません。それがよりによって、同じ裏技を見つけ、ファミマガに同時に投稿する、そんなことあり得るのか? 私は疑いました。本当に、この人物からハガキが来たのか。編集部は賞金をケチってズルしていやしないか。

 あれから年月が経ち、私は小説家になりました。
 言いがかりに近いこの一件を、いまだ私は根に持っています。
 いつか、ファミマガに携わっていた出版社の人に出会い、そのへんの事情をしっかりと確かめたいと願っていますが、果たせていません。

寄稿:万城目学 男 1976年生 大阪育ち 小説家


平成生まれの僕も両親と同じように……

 僕は平成生まれなんですが、ファミコンのゲームの中でもとくにこのゲームには思い出があります。

 僕が小学3年生でゲームボーイに熱中してた頃、なんとなく親に、「何か面白いゲームとか持ってないの?」と聞いたら、母親が、「あー、若い頃に遊んでたゲームがあるよ。」と言って押し入れから何やら怪しい箱を出してきました。その中にあったのが、ファミコンとゲームソフトが15本ほどでした。いきなり家庭用ゲーム機が現れたんだから、さぞかし僕は驚いたことでしょう。急いでテレビに接続して、遊んだゲームの中でもこの「スーマリ3」はかなりハマりましたね。

 後日、友だちにこのゲームのことを話し、僕の家でこのゲームの2Pモードをやりました。ときにはお互いにステージをクリアして助け合い、またある時にはお互いに潰しあったりと、非常に白熱したのを覚えています。助け合ってなんとかワールド8までたどり着いたときなんか、かなり盛り上がってたなぁ〜。

 両親の世代も小学生時代の僕のようにこのゲームを楽しんでたのかなと思うと、何か感動を覚えます。

寄稿:H.S. 男 1993年生 静岡育ち 大学生


趣味の良さを感じた

 マリオとは長い付き合いだ。出会いは『マリオブラザーズ』、いや『ドンキーコング』、いや『レッキングクルーか』……。

 数あるマリオ作品の中でも印象深いのがこの「3」。なんとなく色合いが他のマリオより渋い気がして、趣味の良さを感じた。音楽も好きだった。地下はヒップホップ調だったな。

 飛行船の音楽は、これまでの覚えやすい可愛らしいファミコン曲と、一線を画すものと思う。響くような、抑揚があるような、聞こえ方。これまでの、べた塗りピコピコ音とは明らかに違っていた。私の中で「3」の真骨頂は、この飛行船。強制スクロールが、ひとつの方向だけでない、というのが衝撃だった。

 それから、ブロックをコインに変えるスイッチの存在。これなくして「3」は語れないと思う。ものすごいアイデアと思う。どうしてこういうこと、思いつくのだろう。最後のクッパの音楽も好きだったなぁ。チャカポコチャカポコ、いい音だったなぁ。

 90年代初めから半ば、米国に住んでいて、その頃「SURPER NINTENDO」が米国人の間で流行していた。「スーパードンキーコング」や「マリオカート」、私に勝てる米国人はいなかった。日本代表。「日本人すっげえ」と言われ、ものすごく嬉しかった。歴史が全然違うから。

寄稿:ネスタ 女 1972年生 神奈川育ち 主婦


マリオのコスプレ

 幼稚園年中くらいだったかな。発売された1988年10月当時は馬鹿高い値段で売っていたゲームですが(たしか定価5,800円くらいだったような……僕にとってはヒェーという感じでした)、発売から数年経った1990年代には値段も落ち着いたらしく、親が買ってきてくれました。

 このゲームの特徴は、何と言っても「マリオのコスプレ」でしょう。地上のしっぽマリオや、水中のカエルマリオ、氷上のブロスマリオ、山地のたぬきマリオ、洞窟のファイアーマリオ等がありましたが、僕は個人的にブロスマリオが一番好きでした。

 発売からもう20年経つゲームですが、今は倉庫でお蔵入りしているため、二度とできないでしょうちなみに、我が家に来た最初の「スーパーマリオ」シリーズは、この「スーマリ3」だったのです。

 後に、FCMシリーズがGBAで発売され、僕は「スーマリ」の1と2を迷うことなく買いました。今もやっています。オリジナルと違う部分は、やはり音でしょうか。かなり綺麗になってるんですよコレが。ちなみに、オリジナル版は音がわりと低く、かな〜り渋い音だった記憶があります。

寄稿:キテレツ 男 1985年生 埼玉育ち 会社員


平成生まれですが

 この「スーマリ3」とであったのは2000年のことです。かなり最近です。当時私は8歳で、兄貴が2人いるのですけど、兄貴たちはプレステを自分たちばかりやっていて、私にはあまりやらしてくれませんでした。すると見かねた私の父が、「これをあげるよ」と言ってもってきたのがファミコンでした。そしてソフトが「スーマリ3」でした。

 私は、自分のゲーム機といえば携帯用のモノクロゲームボーイのポケモンくらいしかなくて、家庭用のゲーム機を持ったのは初めてでうれしかったのを覚えています。それでプレーしてみるとすごく面白かったのを覚えています。特に無限アップを成功させたときはすごく感動的でした。

 こんな平成生まれの私を楽しませてくれた「スーマリ3」は、本当にいい思い出のあるゲームです。

寄稿:よつばと 男 1992年生 愛知育ち


2D画面が印象的

 あれは、僕がまだ5〜6才のころでした。当時、僕のまわりは、ロクヨンやらゲームキューブやら、3Dを使ったゲームで溢れていました。しかし、ファミコンは2Dの暖かい画面を僕に与えてくれました。

 もう3Dのゲームに慣れてしまった僕には、この2Dの光がとても印象に残りました。このソフトを父はよくプレーしていました。僕はいつも父のプレーしているその背中を見ていました。父とおしゃべりしながら敵の倒し方を一緒に考えたり、意外な隠しルートを見つけて一緒に驚いたり、思い出深いソフトになりました。

 今もその思い出は、色褪せずに心に残っています。ファミコンが壊れてしまったので、今はWiiで、あの頃のように、今度は父と一緒に協力してプレーしています。

寄稿:清田 耕史 男 1995年生 熊本育ち 学生


夢を与えてくれた最高のアクションゲーム

 当時まだ5歳ぐらいだった僕は、家にあった『スーパーマリオブラザーズ』を毎日のようにやっていた。

 ある日、友だちの家に行くと、『スーパーマリオブラザーズ3』があり、はじめて見た僕は、空を飛ぶマリオ、きれいなグラフィックス、後ろに戻れるなど、多くのことに感動し、忘れられなくなりました。

 そして、誕生日にはどうしてもこれが欲しいと言い、念願かなって買ってもらいました。それはもう発狂するくらいうれしくて、説明書やパッケージを何度も見てニヤニヤするくらいでした。実際にゲームをやってみてまず驚いたのが、火を噴くパックンフラワーでした。そして当時の自分の腕は未熟で、1−1でもとても難しく、父と一緒にプレーしていました。

 後日父が攻略本なるものを買ってきて、こんな物があったんだと驚き、その本を見てるだけでも楽しかったのを覚えています。笛の存在を知ってがんばってみたものの、クリアすることはできませんでした。

 そして2007年12月。wiiのVCで配信され、以前から考えていた笛なしでクリアというのに挑戦しました。やはり自分のゲームの腕は上達しており、悲願のクリアを達成することができました。この歳でありながらエンディングでは昔のことを思い出し、とても感動しました。『スーパーマリオブラザーズ3』は自分にとって夢を与えてくれた最高のアクションゲームです。

寄稿:roku 男 1985年生 岐阜育ち 大学生


無限増殖で現地では“ゲームの天才”に

 これはファミコンを手に入れるのが遅かった僕が、本体と同時に買ってもらった今でもお気に入りのソフトです♪

 色々プレーしましたが、なかでも一番思い出深いのは、90年代にアメリカで生活していたときのことです。アメリカでも2年遅れて3は発売されていたのですが、当時僕の生活する近所の子供たちの間では、1−2でやるクリボーを使った無限増殖がまだ知られておらず、何気なくやってのける日本からきた僕は“ゲームの天才”として触れ回られて、相当気分の良かったことを覚えています(笑)

 今考えると恥ずかしいんですけど、実はあの当時はまだクリアすることができなかったんですよね。よくばれずに済んだものだなー、と30歳近くなった今、ホントに赤面の思いです。そんな恥ずかしいこともあるスーマリ3ですが、やっぱり今でもたまにプレーすることがある本当にお気に入りの一本でした。

寄稿:u-key 男 1980年生 青森育ち ホームページ


好成績のごほうびに

 このゲームとの初めての出会いは、私が8歳の頃でした。その当時、ファミコンゲームは近所の男の子のいる家ならどこにでもあったのですが、男の子のいない私の家にはもちろんなく、「ファミコンは男の子の遊び」と一人勘違いしていた毎日でした。

 ある日のこと、母が小学校の役員会で家を空けることになるというので、母が帰って来るまで近所の友だちの家で遊ぶことになったのです。で、友だち(私と同級生の女の子)が、「新しいファミコンソフト買って、兄ちゃん(2つ上と4つ上)が遊んでるから、見に行ってみいひん?」と言われ、早速友だちの兄のプレー振りを見せてもらい、感激!!

 コースを選べたり、きのこ、フラワー、スターの基本アイテム以外に、色んな変身があって楽しそう、という第一印象があり、役員会から戻ってきた母に初めてねだったのでした。

 親からは、最初は「目が悪くなるから」と反対されていましたが、「今度、通信簿で体育だけの好成績か、4科目(国語、算数、理科、社会)すべての好成績を修めたら、クリスマスにサンタクロース宛の国際電話で注文してあげるから」と言われたのです。

 元々勉強が得意だった私は、とりあえず難なく好成績を修め、今でこそ親からのごほうびと思っていますが、その当時はほんまに国際電話でサンタクロースに電話を注文してくれてたと思い、空にも舞い上がるほどうれしかったです。

 あれから15年余りたちましたが、いまでも、ファミコン機は元気で、子どもができたら、子どもにも面白さを教えたいです。

寄稿:城 女 1980年生 兵庫育ち 社会人


空を飛んでいるような気分に

 母親に連れられて幼稚園に通っていたころ、支度を早めに済ませて、スーパーマリオをするのが日課でした。ツインファミコンには黄色いカセットがいつもささっていました。Bダッシュを駆使し、クリボーをやっつけながら世界を走り回るマリオが凄く好きでした。

 ある時、姉の友だちがマリオ3を持って家に遊びに来ました。マリオ1しかやったことの無かった私は、大変驚いたのを覚えています。なんだかいつものマリオと違うなあと思って画面を見つめていたところ、マリオが空を飛びました。凄く遊んでみたかったのですが、遊ばせてもらえませんでした。

 姉の友だちが帰った5時過ぎ、私は早速母親に今日の出来事を言い、どうしてもあのマリオが欲しいとお願いしました。ちょうどクリスマスの季節だったので、プレゼントにと母は約束してくれました。

 クリスマスの朝、頭の上に黄色いカセットを見つけた私は、あのマリオと同じく空を飛んでいる気分になりました。

寄稿:rete 男 1985年生 大阪育ち 大学生


接触不良の1コンを持たされて

 私が小学4〜5年生の時だったのですが、当時ひとつ上の先輩の家に遊びに行った時(しかもこの一度しか遊びには行かなかった)、先輩と二人で遊びました。先輩には弟がいて、その弟も横目で画面を見ていました。

 「先輩が1プレーヤーをすればいいのに」と思ったのに、先輩は2プレイヤーのコントローラーを持ちました。私が1プレーヤーのコントローラーを持たされました。何かおかしな気がしました。そして1-1が始まって、そのおかしなことに気づいたのです。それは「ジャンプ」ができないのです(笑)! なんと、1プレーヤー側のコントローラーが接触不良で、ジャンプができなかったのです。

 ファミコンをあまりやったことのない私は、「こういうものなの?!」くらいにしか思わず、深く追求しなかったのですが、先輩もなんか変な顔をしてました。私はその先輩の弟さんとも仲がよかったのですが、その弟さんは5年程前に亡くなりました。今でもゲームの思い出と共に、あのワンシーンは私の心に刻まれています。

寄稿:こうき 男 1982年生 栃木育ち 学生


12年もかかった僕とマリオの旅

 忘れもしない5歳の誕生日の日の昼。父と母に、人生であれほどせがんだことはないんじゃないか?というくらいせがんだ『スーパーマリオブラザーズ3』のカセットが綺麗な包装をされ、僕の手元に届いた。

 僕はマリオ3の虜になり、ただひたすらクッパを目指した。気がつくと僕はマリオだった。マリオになって空を飛んで、敵に当たると「いたい!」と本当に声をあげていた。でも、元々アクションが下手なことが災いし、結局クッパを倒すことはできなく、3年も経つとピーチ姫を救えないまま、僕はマリオではなくなっていた。

 ……僕がマリオ3を買ってから12年という月日が経った高2のある夏休み。色褪せたマリオ3のカセットとファミコン本体を見つけた。マリオだったあの日々を思い出しては悔しい思い出でいっぱいになった。「僕はマリオだったハズのにピーチ姫を救ってない!」そして僕は久しぶりにマリオになる決意をした。

 夜、本体とソフトをセットしてゲームスタート。下手な腕は相変わらずだが、めげずに頑張った。ついに念願のクッパの目の前にたどりついた。クッパは強かったが、負けずに何度も立ち向かった。やがてクッパは地面の下に落ちていった。12年もの間、僕を待っていたピーチ姫は奥の部屋で泣いていた。

 「おわり」その文字が現れ、エンディングテーマが流れ出した時、12年もかかった僕とマリオの旅は終わった。本当にありがとう!マリオと任天堂さん!

寄稿:Bun 男 1983年生 北海道育ち 大学生 ホームページ


2浪の受験前の緊張感の中でもう一度

 浪人2年目の受験前に発売されたこのゲーム。浪人仲間の友人が購入し、早速壁の薄い四畳半一間の安アパートに住むその友人宅へ。

 「う〜ん、おもしろい。」なんたる進化を遂げたものか。ボタン操作に寸分狂わず動く抜群の操作感。ワープの方法なぞ知りもしないので、当然の徹夜プレーに。各ワールドのボスキャラを倒すたびに「よっしゃー!」の歓声。(このボスキャラを倒した後の音楽は本当に良いですね)隣人の苦情にもめげず、明け方にワールド8に突入しました。

 しかし、必死の思いでたどりついたワールド8の砦は、目の前を真っ暗にさせました。「ど〜すればいいの?」睡魔により思考能力ゼロの頭では、どうしたってクリアできず、あえなく玉砕。

 後年、バックアップ機能のついたスーファミ版で、永年の夢を果たしましたが、今一度、受験前の緊張感の中での異様なテンションでもって、このゲームを友人と二人でプレーしてみたいなぁ〜。

寄稿:ケケR 男 1968年生 東京育ち


史上最高峰のアクションゲーム

 3というのは常に期待されがちである。しかし、期待にそぐわない作品がほとんどである。マリオ3の場合、期待は大きかったが、「ドンキー3」の二の舞にならぬことだけを祈ったが、結果は取り越し苦労だったようだ。

 広大なマップ、豪華な展開、キャラクター、音楽等・・・。とくに4ワールドの巨大なキャラたちには度肝をぬかれた。ファミコン史上最高峰のアクションゲームを味わえた。初めてゲームのサントラを買ったのもこのマリオ3。CDではなくカセットテープだった。

 難を言えば、パッケージの元気なマリオのイラストとは反対に、ゲームではちっちゃな目のマリオ・・・まるでノーメイクの女性のようだ。あとはひらがなメッセージ。1や2のように英語が良かった。

寄稿:ゾイン 男 1972年生 神奈川育ち 映画監督


期待を胸に1のカセットに「3」と書いてみた

 このゲームに出会ったのは幼稚園の頃。ゲーム好きで、ファミコンの華麗なテクニックを誇っていた、2歳上のいとこの家であった。当時の私にしては、遊びに行くといつも最新のゲームを自由に操っている彼の存在は神そのものだった。

 そんな彼の家で私はこのゲームに出会った。その操作性、グラフィック、隠し要素満載のボリューム……、当時の私はこのゲームの虜になってしまった。しかし、当時の私の親は厳しく、簡単にゲームソフトを買ってくれるような印象は無く、親にその気持ちを伝えられずに、どうしようもない気持ちで毎日くすぶっていた。

 そして、その不安定な心理が頂点に達したとき、私は以前おじさんから頂いた『スーパーマリオブラザーズ』1作目に目をつけて、マジックで「3」と震えた手で書いてしまったのだ! 子供心に、もしかしたら「マリオ3」に変わるかもしれないという期待があり、その小さな可能性にかけた結果としての行動だったのだろう。

 その直後、小学校から帰宅してきた3つ上の兄に殴られ、私は初めて自分の犯したあまりに大きな罪に気づいたのだった……。いまだに色あせることのない、震えた文字でマリオ1に書かれた「3」という文字。それは僕の人生すべての原点であると言っても過言ではない気がする。そして今でもゲームを引っ張り出しては、あの頃のことを懐かしくしみじみと思い返しています。

寄稿:ラモス 男 1983年生 埼玉育ち 大学生


受験の年に登場した大作

 1988年、ディスクシステムが登場している時代に出てきた。スーマリ2だってロクにクリアしてないのに、もう出てきてしまった。学校にも噂は飛び回り、評判だった。しかし買う人は少ない。受験生だったからだ。しかし私は発売日に買い、早速お手並み拝見といきました。

 「なんだこれは?」1−1に出てきた謎のアイテム。そわそわと取ると(ぼわん)という音とともにタヌ耳にかわいいしっぽ。これにびっくり! さらにびっくりするのは、しっぽで敵を蹴散らし、なんと空を飛ぶ・・・。着ぐるみや解体作業着など、このマリオはどこまで変わるのか。

 その後、受験シーズンが終わるまで手を出さないよう、封印した。そして受験後、友だちを呼んでファミコンパーティ。もちろんメインはこのゲームだった。

 4人で1Pチームと2Pチームで協力プレー。お互い助け合いながらもついにあの大魔王を倒し、クリアができました。(ワープなしの全クリ)マリオのエンディングにみな号泣! 家族も疑うほどだった。「俺たちよくやったなあ」と言いあった。こうして私は一流大学にも入り、無事人生に本当のスタートが開けた。去年、またマリオ3のアドバンスを見つけ、再プレーをしてあのときを思い出した。

 今でも生徒にマリオゲーのすばらしさを教えてあげている。私の人生とともにマリオは今なお、新たなる人生という名のワールドで冒険をしているのかもしれない・・・。

寄稿:近藤 たつや 男 1973年生 千葉育ち 小学校教師


各駅停車片道5時間、バックアップ無し

 スーパーマリオをプレーするのなら、当然チャレンジしてみたいのが、「ワープ無し・増殖無し・コンティニュー無しでクリア」です。

 でも3ともなると、最大の難関となるのが、尋常でないボリューム。とにかく様々なワールドがありますし、アイテムやボーナスの隠しもてんこもり。これを全行程くまなくプレーしようとすると、かかる時間も相当なものでした。

 夏休みなんかにお昼過ぎから開始しても、夕方にやっとワールド6に着いたかどうかで、そうなると「いつまで遊んでるの(怒)」という母の言葉が何よりも恐ろしかったです。でも長時間やってヘロヘロになっても、ちっとも飽きが来ない。面白さのてんこもりでした。

 そういえば、最近アドバンス4でリメイクされたものは、セーブ機能があるらしいので、ちょっとうらやましいかも(笑)。

寄稿:いつしまあじし 男 1975年生 東京育ち プログラマー


ひたすらやりこみ、今では1−1を6秒クリア

 このゲームは、子育てにはほとんど関与してなかった父が、初めて僕のために買ってきてくれたゲームだったと記憶してます。

 当時、ゲーム下手だった僕はクリアが出来ませんでした。だからクリアを目指してひたすらやりこんだのも覚えています。スーパーマリオ1・2と、まったくと言っていいほど違うシステムなどに感動していましたね。

 今となっては13分クリアや1−1を6秒クリアとかも出来てしまう始末。いまだにやりこんでます。

寄稿:かじ 男 1983年生 北海道育ち 学生


はじめてのアクションゲーム、やればやるほど上達

 当時3歳ごろで、ある日兄が画面に食い入って熱中している。何だろうと思って、何なのかと問いただした。すると、兄が「マリオ3だよ」と返答した。

 コントローラーを渡されてプレーした。はじめてのアクションゲームなので、ステージ1でクリボーやノコノコに当たって死ぬほど下手だった。しかし、面白い。面白すぎる。これ以来、マリオ3にはまるようになった。

 やればやるほど上達して、うまく操作できるようになった。1年経って遂にラスボス倒した。いつ思い出しても、まだ新鮮に蘇る。あのとき、兄に勧められなかったら、未だにはアクション下手だったかも知れない。

 任天堂さん、ありがとうございました。

寄稿:みっく 男 1988年生 愛知育ち 学生 ホームページ

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